『日本画とは何だったのか』そして日本における近代性とは何だったのか?

堀内 勉2018年03月08日 印刷向け表示
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日本画とは何だったのか 近代日本画史論 (角川選書)
作者:古田 亮
出版社:KADOKAWA
発売日:2018-01-26
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「日本画とは何なのか?」、この問いに正面から答えられる人がどれだけいるだろうか。
日本画という芸術を成り立たせているのは、膠や墨や顔料などの日本画材(グルー・ペインティング Glue painting)なのか、日本画様式(ジャパニーズ・スタイル・ペインティング Japanese style painting)なのか、或いはその両方なのか、若しくはそれ以外のものなのか。

例えば、浮世絵と日本画の関係はどう理解したら良いのだろうか。西洋の画家たちが取り入れたような、浮世絵の大胆な構図法やデザイン性などは、近代における日本画とは殆どつながりがない。特に、浮世絵を代表する喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳らの影響は、河鍋暁斎や小林清親らには見られるものの、それは明治初め頃までのことで、近代以降の日本画では、誇張と斬新さを売り物にするような浮世絵的な表現はむしろ忌避される傾向にあった。

そうした意味で、この『日本画とは何だったのか 近代日本画史論』は、近代日本画の本質を知る上での決定版と言える。私のような素人には、これまで「日本画」とは何なのかがサッパリ分からなかったが、本書では多くの日本画家をきめ細かく取り上げ、歴史的背景とともに丁寧に紐解いてくれているので、かなり頭が整理できた。

哲学者の西田幾多郎が、「我々の歴史的行動はすべて表現作用的である。芸術はその特殊なる場合に過ぎない」と述べているように、日本画とは、日本という国家における近代性とは何だったのかという歴史的背景について、芸術という側面から光を当てたものに他ならないのである。

本書を知ったのは、世界的な現代美術家の村上隆氏がFacebookで取り上げていたからである。本書の日本画通史の部分については絶賛していたが、結論の部分には批判的だった。日本画の再興を促すような強いメッセージや具体的な行動指針がなく、淡々と事実の記述に終わっている緩さに不満を感じているようだ。六本木ヒルズの森美術館の誕生と軌を一にした村上氏の大躍進をずっと見てきた身として、確かにその熱い思いは本書の淡々とした結論を凌駕するものである。

著者の古田亮氏は1964年生まれで、現在、東京藝術大学大学美術館准教授を務めている。村上氏との関係は窺い知れないが、村上氏が1962年生まれで、東京藝大の日本画科を卒業し、その後同大学で博士号を取得していることを考えると、同僚に対する叱咤激励ということかも知れない。

そうした前提で本書の内容に触れると、まず議論の出発点として、著者は日本画はクレオールだという。クレオールとはクリオーリョというスペイン語に由来する言葉で、本来は植民地に生まれたネイティブ以外の白人移民を指したが、やがては混血、更には白人の血が混じった黒人を指すのが一般的となった。

クレオール化とは、何らかの植民的環境が生じたことにより、否応なくその環境に順応するためにネイティブが変化することを言う。

著者によれば、中国からの強い影響によって古代から変化を遂げてきた近世までの日本絵画は、中国絵画に対するクレオール絵画であった。そして、19世紀後半、近代化=西洋化という文明開化の波の中で、西洋絵画の圧倒的な影響を受けた日本絵画は、「日本画」と「洋画」という二つのクレオール絵画を生み出したと言うのである。

つまり、日本画の前身である日本絵画が西洋画と出会い、フェノロサや岡倉天心らの努力によって、明治維新以降、近代ナショナリズムの勃興と共に「日本画」として成立したのである。国家主義を揺籃とした明治期、皇国感情の中で成熟を迎えた大正期から昭和初期、そして大平洋戦争の終結と近代天皇制の終焉と共に、その体制下で同質化された国民に支えられてきた日本画が終焉を迎えた。

ところが、戦後、「日本画滅亡論」と言う逆説的な危機感によって盛り返し、1960年代のいざなぎ景気、1980年代のバブル景気に乗じて、そのスタイルを変えつつも、敗戦の心の傷を癒す国民的メディアとして国民絵画としての存在感を保ち続け、平山郁夫、東山魁夷、加山又造らを頂点とする形で一時の繁栄を謳歌したということである。

ここに新たに確立した国民絵画は、飽くまでもその前提となる日本社会においてのみ生産され、消費される国内絵画だった。戦後の官僚主義と護送船団方式が維持されていた日本では、バブル景気時代を経てクライマックスを迎えた後でも、国内的日本画が再生産され続けたのである。
しかしながら、こうした国内向けの日本画は、新たな日本社会、即ち、合理化とIT化、そしてグローバル化していく社会構造の変化の中で、存在の場を失っていった。

現代のフェノロサや岡倉天心が現れない今の状況が続けば、国内向け国民絵画としての日本画は、グローバルな社会の変化や現実世界から隔離したところに自らを押し込めてしまい、その先には、日本画の伝統工芸化とも言うべき事態が待っているだろうというのが著者の見立てである。

そうした中で、村上隆や千住博のように、この閉塞的な状況から脱して戦略的に日本画を描く作家たちが現れたのは1990年代のことである。彼らは日本ではなくニューヨークなど海外を拠点として国際的に活動してきた。彼らにとっての日本画は、もはや内向きのものではなく、世界市場で通用することを目指した、現代美術全般の流れの中に位置している。

これらを仮に「超日本画」とでも呼ぶなら、ここには何となく日本画らしさを含み持つ全ての現代アートが含まれることになり、もはや日本画として考察の対象とすることも難しい状況になっている。

これら超日本画は日本画らしきものである限りにおいて、その技法材料を問わない。つまり、膠も墨も顔料も重要な要素とは言えなくなっている。そもそも、近代の日本画とは北斎や暁斎を切り捨てたところに成立した絵画であった。皮肉なことに、日本画は国際的にも通用するような国の絵画を創出する狙いのもとに創られたにもかかわらず、日本らしさを持つ絵画として国際的な評価を得たのは、あくまでも葛飾北斎や河鍋暁斎であり、今日ではそれに代わってマンガやアニメなのである。

このように、戦後高度成長を支えた日本の社会構造の変化、グローバリゼーションやIT化の急速な進展に伴い、今や「日本画」という枠組みも急速に溶解してきており、日本人の手になるアート作品、或いは「日本的なもの」を内包した絵画として、全く新たな道を歩み始めているのである。

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