『経営者 日本経済生き残りをかけた闘い』日本を支えた「渋沢資本主義」 著者まえがき

新潮社2018年05月25日 印刷向け表示
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経営者:日本経済生き残りをかけた闘い
作者:永野 健二
出版社:新潮社
発売日:2018-05-25
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「日立・三菱重工 統合へ」──。

白抜きの横一本見出しがトップを飾る2011年8月4日付の日本経済新聞朝刊は、衝撃的だった。中見出しには「売上高12兆円超」「原発事故で環境激変」とある。同年3月11日の東日本大震災とそれに続く東京電力福島第一原子力発電所事故がもたらした政治・経済環境の緊迫が、日立製作所と三菱重工業という日本を代表する企業の経営統合という歴史的な大ニュースを生みだしたことを示していた。

新聞記者を長くやっていると、とりわけ企業取材をやっていれば、記者が夢見るニュースとは「一本見出し」ですべてがわかるニュースを書くことである。「日立・三菱重工統合へ」というニュースがまさにそれだった。

「統合対象は原子力や火力などの電力プラント、水処理や再生可能エネルギー分野、鉄道車両など社会インフラと、情報制御などITを中心に幅広く協議。13年4月をメドに統合新会社を設立する方針だ」と記事のリードにある。

いまや日本経団連(日本経済団体連合会)の会長となった日立製作所の中西宏明社長(当時)は、記事が掲載された4日早朝、記者団に囲まれ、「統合協議入り」について質問されると、「はい」と答えて、車中の人となった。

どこからみても肯定のコメントであり、日本経済新聞の完璧なスクープだった。しかし、数時間後に事態は暗転する。

午前中に中西宏明社長と大宮英明三菱重工業社長(当時)が、「そのような事実はない」とコメントを出し、夕方に予定されていた記者会見は急遽、中止となる。以後、日立製作所、三菱重工業の関係者で、この問題について明確なコメントをする人はいなくなる。

その衝撃度において1970年の八幡製鉄・富士製鉄の合併を上回るとさえ言えるニュースは、こうして歴史の闇に沈んでいった。新聞社の訂正記事もなく、会社側の修正発表さえない、合併ニュースとは一体何なのだろうか?

自民党が政権に復帰し、安倍晋三内閣がアベノミクスという異様な金融緩和を伴う景気刺激策を打ち出す1年半前のことだった。また東芝の粉飾決算が表面化する4年前のことでもあった。

もし、あの時点で、日立製作所と三菱重工の経営統合が実現に向けて踏み出していたなら、日本の産業構造に転換を迫り、さらには日本の原子力政策の転換をも促すものになっていただろう。日立・三菱重工連合という「日の丸原子力会社」が実現していたら、米ウエスチングハウスを傘下に収めた東芝に対する、国の過剰な保護や配慮はなかっただろう。東芝の経営者は、果たして私利私欲で常識外れの粉飾決算の道を選び続けることができただろうか。また、アベノミクスも、金融政策だけに依存したバブル政策との批判を受けただろうか。

経営統合の失敗の原因は、大宮社長以下の三菱重工の現役経営陣の根回し不足・経営の力量不足と言われている。しかし、常識的に考えて、社長の決断をいったい誰が覆せるのだろう?

問題は、もはや取締役でもない経営者OBが、長老として絶大な拒否権をもっている三菱重工の非常識で不健全なガバナンスにあった。その非常識を充分に解消できないままに、日立との経営統合と、日経の報道に直面せざるを得なかったのが、現役の経営陣だったともいえる。

その後の三菱重工の経営の推移を見れば、原子力部門にとどまらず、造船、航空機部門でも不振が続き、いまや、会社自体の存続さえ危ぶまれる状況になっている。大宮のあとを継いだ宮永俊一社長は、長い三菱重工の歴史のなかでも異例中の異例といえる6年目の任期に突入しているが、それは、けっして彼の経営力が評価されてのことではない。「危機的状況」の裏返しである。

いま一つ付け加えておきたいことがある。三菱商事、三菱化学など、三菱グループの有力企業の実力経営者たちからは、合併のニュースがうやむやになる過程でも、三菱重工内部の混乱について、公然と異を唱える声が出なかったことだ。三菱重工の内部で起きた歴史に残る経営判断のミスを、グループにとっての危機とは感じないところに、現在の三菱グループの悲劇がある。

この事件こそ、日本の近代資本主義の転機だったと思う。バブル崩壊後の失われた20年を経て、誰もが時代の転機を感じ取っていた。それを感じ取れないのが、三菱重工業という会社の悲劇だった。

明治維新以降の日本の資本主義の発展史は、日本の銀行制度や株式会社制度をつくり、さらには500社にのぼる株式会社の創設に関わった「日本資本主義の父」渋沢栄一を抜きに考えることはできない。

保有資産の多寡でいうならば、一代で三菱財閥を築き上げた、岩崎弥太郎にかなう者はいない。しかし、岩崎は、独占を志向する企業家であり、資本家であった。彼には、制度としての資本主義をつくりあげようという理想があったわけではない。あるのは、事業とカネへのあくなき執着だけだった。国家と一体となって動く「独占資本主義」の権化を、日本資本主義の父と呼ぶことはふさわしくない。

いま一人、明治維新の経済面での知的リーダーに福沢諭吉がいる。英米流の資本主義、経済学に強く影響を受けた福沢は、『西洋事情』や『文明論之概略』で、大衆にわかりやすく日本の政治・経済の実情を論じ、『帳合之法』では会計学の必要性を説いた。まさに日本の「ビジネス社会」の草分けである。また、慶應義塾を舞台に人材を育成し、民間で活躍する「経営者」を数多く輩出した。その意味では、明治期の日本の資本主義の形成に大きく寄与したことも間違いない。しかし、彼自身は、「実学」の人ではあっても、「実業」の人ではなかった。

渋沢が「日本資本主義の父」と呼ばれる理由の一つは、日本人に幅広く浸透している「論語」を思想的基盤とした資本主義の哲学をつくりあげ、実践したことである。それは、のちに『論語と算盤』『処世の大道』などの著書にまとめられる。マックス・ウェーバーは「資本主義の精神」の基礎をプロテスタントの過激な革命精神においたが、それを「論語」に読み換えて、マックス・ウェーバーと変わらない時期に生みだしたのが渋沢だったと言える。資本主義という苛烈な仕組みを、穏健な日本社会の中に埋め込むための知恵だった。欧米流の利益第一の資本主義ではなく、「公益」を第一に考え、公益の追求が利益を生みだす資本主義だった。

渋沢が資本主義を学んだのが、江戸幕府最末期の京都所司代一橋家や第15代将軍徳川慶喜のもとであり、学んだ場所がフランスだったことも忘れてはならない。日本近代化のエンジンとなった殖産興業政策の原型は、フランスのサン・シモン主義と呼ばれる、ある種の社会主義的政策のなかにあった。米国流の市場原理主義とは異なるものだった。

また、こうした思想以上に、渋沢と他の二人を分かつのは、渋沢が為替制度、銀行制度、証券取引所、商工会議所など、明治維新以降、1980年代のバブルの時代にまで繋がる日本資本主義のプラットフォームを、大蔵官僚時代につくりあげたことである。さらには、民間に下ったのちには、外国からの技術導入によって、繊維や紙など日本の基幹産業を立ち上げ、日本の製造業の歴史をつくりあげたことも、渋沢の大きな功績といってよい。

渋沢栄一、岩崎弥太郎、福沢諭吉の三人は、いずれも明治維新後の日本の資本主義の草創期を、自由闊達に走りきった思想家であり、企業家であり、資本家である。この三人が生みだした三つの奔流が、あるときには、岩崎的なものに傾斜し、あるときには、福沢流のグローバルスタンダードの潮流に流れ込みながら、ダイナミックに交錯したのが、草創期の日本の資本主義だった。日本にとっては「坂の上の雲」の時代でもあった。

日清・日露の二つの戦争と、太平洋戦争を挟み、日本の経済制度はさまざまに変わった。しかし、渋沢栄一の現実主義のなかで巧みに融合した「日本資本主義の哲学」は、戦後の日本システムを通じて脈々と生き続けてきた。

明治維新からバブル崩壊の時代までの120年の歴史を「渋沢資本主義」と呼んでみたい。そして、明治維新から太平洋戦争の敗北までを前期渋沢資本主義、戦後の復興からバブルまでの時代を後期渋沢資本主義と名付け、区別したいと思う。

渋沢資本主義を、アングロサクソン型の資本主義と分かつものは、①公益に資することを資本主義の本題とすること②株式会社のステークホルダーを株主だけにおかず、取引先、銀行、従業員などさまざまな利害関係者におくこと(株主資本主義に対するステークホルダー資本主義)──にある。

前期渋沢資本主義は、1930年代の世界恐慌によってリベラルな資本主義が崩壊し、その存立基盤が崩れた。日本は「金解禁」論争などをへて、戦争期の財閥資本主義への道をひた走ることになる。

そして、戦後の後期渋沢資本主義である。安本(経済安定本部)に象徴される、にわか作りの組織に集まった若手官僚や民間人が、戦後の復興の人的資源になったことは、まぎれもない事実である。彼らのなかには、渋沢に直接または間接に影響を受けた者たちが少なからずいた。

また、解体された内務省に代わって、大蔵省(現財務省)が「官僚の中の官僚」として新たに権力を掌握し、官房長、秘書課、主計局を中心に、自民党一党支配の「黒衣」を演じた。そして戦後の資金不足の時代に資金の配分機能を担った日本興業銀行(興銀)が、産業金融の雄として、絶大な力を持った。日本興業銀行の権力と大蔵省との蜜月こそ、「後期渋沢資本主義」の前提条件だった。そして傾斜配分・傾斜生産という政策のもと、産業資本主義の頂点に君臨したのが、八幡製鉄と富士製鉄(のちの新日鉄)を代表とする重厚長大産業の担い手たちだった。

官民が役割を分担しつつ一体となって動き、その頂点に「興銀・大蔵省・新日鉄」が君臨するのが後期渋沢資本主義だった。結果として、主役は東大法学部卒のエリートたちだった。さまざまな変化にさらされながら生き延びてきた渋沢資本主義は、80年代のバブルの時代に存続の前提が崩壊する。

本書は、私自身が最前線の記者だった1973年(第一次オイルショックの年)から、1993年(宮沢喜一自民党政権が崩壊した年)までの20年間と、さらに広い意味で、日経を舞台にメディア人としてニュースに関わってきたその後の20年間のなかから、戦後の経済史、経営史を考える上でこれだけは外せないと思うもの、そして「私にしか書けないニュースが含まれている」ものを選び、「経営者」の視点から後期渋沢資本主義の物語としてブラッシュアップした。アカデミズムでも、ジャーナリズムでもない何かが生まれたと自負している。

冒頭のエピソードは、日立と三菱重工の経営統合の話だが、同時に日立と東芝の物語でもある。オイルショック以降の成熟期の日本経済のなかでは、日立と東芝はいつでも二社でひとかたまりである。二社とも財閥色の強くない日本の代表的企業である。

東芝は、戦後の復興の過程で、石坂泰三と土光敏夫という二人の大物財界人を生み出した。石坂は二代目の経団連(経済団体連合会)会長となって「財界総理」と呼ばれ、政治家以上の政治力を発揮した。土光敏夫は、その真面目にして質素な生活ぶりが国民の人気を集め、バブルの時代の80年代に、中曽根康弘政権の行革の旗を振り、国鉄の民営化や、電電公社の民営化を実現した。

私から見れば、八幡製鉄・富士製鉄とともに、東芝も後期渋沢資本主義のシンボリックなモデルである。その東芝をはじめ、日立、三菱重工は、それぞれ従業員15万人、30万人、8万人を抱える超大企業にして、原子力、軍需産業、航空機などをかかえる公益型産業でもあった。

渋沢資本主義のモデルともいえる東芝の経営が破綻し、名実共に三菱グループのリーダーと思われていた三菱重工も、航空機、船舶、原子力という、これまでの金城湯池だった公益部門から危機が火を吹いている。

2011年の東日本大震災と福島原発の事故は、日本にとって1945年の敗戦に匹敵する分岐点だった。1945年の危機では、日本社会全体で危機感が共有され、政官民が一体となって、たぐいまれな企業家精神が発露したことで救われた。そして2011年の危機に際して、日本株式会社のエンジンであった日立製作所と三菱重工が危機感の中で選び取ったのが、「経営統合」という選択肢だったと思う。乾坤一擲の「危機からの浮揚策」だった。

しかし、この構想は、三菱重工の長老たちによって潰された。そして、7年たった今、財界の事情通の間では、「三菱重工は、日立に全面降伏する以外道なし」と言われている。

そもそも東日本大震災の時点で、日立と三菱重工との経営力の格差は、誰の眼にも明らかだった。そして、三菱重工の中にはその現実を認めない時代錯誤が蔓延していた。1990年代のバブル崩壊から、アベノミクスの時代にいたる「失われた20年」とは、まさに三菱重工が凋落し、日立製作所との経営力格差がはっきりする期間だった。

バブルの最終局面である1989年に始まった平成の時代が、終わろうとしている。バブルの時代に後期渋沢資本主義の限界はすでに露呈していたが、2011年の東日本大震災の年こそ、明治以来の渋沢資本主義のプラットフォームが名実共に崩壊した年だったと思う。

2012年の総選挙で勝利した安倍晋三は、デフレ対策を織り込んだ金融政策に加え、構造改革を掲げ、その後の総選挙でも支持を得てきた。そして、その経済政策であるアベノミクスは、5年を経過して「出口戦略」なきバブルの道を辿っている。

東芝だけでなく、神戸製鋼、三菱マテリアルなど、日本の大企業の不祥事が相次いでいる。しかし、これらを個別の企業の経営管理の問題と捉えては何も見えてこない。渋沢資本主義を日本の歴史のなかに位置付けてこそ、見えて来るものがあるのではないか。それは戦後の「日本の経営」を総決算して、学び直す視点でもある。 

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