命をかけた冒険の果てに、何が見えるか『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』

塩田 春香2016年02月01日 印刷向け表示
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転がりながら、つかんだその細い木が手のひらからずるりと抜けていくのが見えた。絶望的な光景だった。その瞬間、自分は死ぬんだと分かったのだ。これから川まで一直線に投げ飛ばされ、激流にもまれながらインドまで流されるのだ。

前回レビューを書いた『冒険歌手』を読んでからというもの「冒険ってなんだろう」とモヤモヤし続けていた私は、その簡単には出そうにない答えを求めて本書を手にとった。著者は『冒険歌手』の峠恵子さんと共にニューギニアを探検した「ユースケ隊員」こと、角幡唯介氏である。

数多くの探検家たちが魅了され、挑み、跳ね返され、そして時に命を落とした伝説的秘境、ツアンポー峡谷。アジア有数の大河・ツアンポー川は、ヒマラヤ山脈東端で大きな山に挟まれて屈曲する。その峡谷には人跡未踏の地理的空白部があった。それが本書のタイトル、ファイブ・マイルズ・ギャップ――「空白の五マイル」である。

きっかけは本だった。大学の探検部に所属していた著者は、たまたま書店で手にとった
『東ヒマラヤ探検史――ナムチャバルワの麓「幻の滝」をめざして』という本でツアンポー川の探検史に興味を持つ。本に書かれていたのは1924年の探検までだったが、その後もかの地の全容は未解決のまま残されていることを知り、のめり込んでゆく。

本書では、著者が12年間、3回にわたる探検で対峙したツアンポー峡谷と、かつてそこに挑んだ人々の物語が交錯しながら語られる。この峡谷を探検家憧憬の地にしたのは、キントゥプというインド人にまつわる未発見の大滝伝説だった。この男が、ただ者ではない。

19世紀後半になっても、ツアンポー川はヒマラヤからどこへ流れているのかすら解明されていなかった。探検スパイとしてイギリス人測量責任者に雇われたキントゥプは、仲間の裏切りで奴隷として売り飛ばされながらも忠実に任務を遂行し、なんと500本もの丸太を切り出してツアンポー川に放り込み、それがアッサムへと流れて行くことを証明しようとしたのである。

しかし、アッサムで流れる丸太を見つけてくれるはずだった彼の雇い主は、病気でインドを去ったあとだった。500本もの木をおそらく斧で切り倒し、丸太にして運び、1日50本ずつ川に流す……想像するだけで気の遠くなるほど壮絶な苦労で川へと投入されたキントゥプの丸太は、誰に発見されることもなくベンガル湾に流れ去ってしまったのだった。ああキントゥプさん……切なすぎる。気の毒すぎる。

それでもインドに帰国後、彼が口述報告したツアンポー峡谷の話は探検家たちを魅了するに十分であった。なかでもロマンチシズムをかきたてたものが、これだった――峡谷の奥地にまだ誰も見たことのない、巨大な滝がある! 

以後100年以上にわたり、この伝説の滝を探す探検は繰り返された。

時は流れて、2002年。ツアンポー川畔で、著者は滑落する。その場面が本レビューの冒頭だ。探検の偵察に訪れてから2度目のツアンポー峡谷、単独行だった。滑落で九死に一生を得てからも、肌が爬虫類のうろこのようになるほど隙間なくダニにたかられ、巨大な岩壁に行く手を阻まれ、イラクサの刺に痛めつけられる。

自然が人間にやさしいのは、遠くから離れて見た時だけに限られる。長期間その中に入り込んでみると、自然は情け容赦のない本質をさらけ出し、癒しやなごみ、一体感や快楽といった多幸感とはほど遠いところにいることが分かる。

そしてついに「空白の五マイル」に立った著者は、予想すらしなかったものを発見し、驚愕することになる。

その対岸の岩壁に刻まれた光景に、私の目はくぎ付けとなった。そして、おい、おいと、思わずひとり言をつぶやいていた。

――それから7年。前回の探検で十分な成果をおさめたにもかかわらず、著者は会社を辞めて、再びチベットへと向かった。

私はもっと深いところでツアンポー峡谷を理解してみたいと思うようになっていた。もっと奥深くに行って、どっぷりと浸かり、もっと逃げ場のない旅をしてみたい。

だが待っていたのは、これまで何度も命拾いをしてきたはずの著者でも受け入れがたい、じわじわと襲ってくる死の恐怖であった。

何度も死神と鼻を突き合わせていると、死ぬかもしれないということに対する懐が普通の人よりは深くなる。生と死の境界線上に立たされた時、私は比較的冷静に事態を受け入れ、混乱せずに対応できる自信があった。
しかしそんな自信など嘘だった。本当に死ぬかもしれない……。そう言葉に出してつぶやいた時、私は思わず泣きそうになっていた。

助けてくれる人もなく、圧倒的な大自然に呑み込まれてしまったとき。きっと人は己が何者であるかを知るのだろう。極限状態で向き合う相手は、自分自身なのだ。

死と隣り合わせの冒険など、なかなかできるものではない。だから私は冒険してきた人たちの話を聞き、書いたものを読み、自分ならばどうであろうかと想像をする。たぶん一生自分では見ることのできない世界の扉が、目の前でひとつ開かれる。だから、冒険家は生きて帰ってきて、伝えてほしい。見て来たものを、その体験を。Google earthではわからない、生身の実感を。あつかましい願いだろうか。

あっさりと命を落としてしまうかもしれないのに、人はなぜ冒険に出るのだろう? 

冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。

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