『白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻』文庫解説 by 服部 文祥

2013年8月16日 印刷向け表示
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白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻 (新潮文庫)

作者:NHK取材班
出版社:新潮社
発売日:2013-07-27
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個人的「山野井泰史」史

この解説は難しい。私も登山家などと呼ばれているが、山野井泰史とは登山家としての器に差がありすぎて、解説の執筆は自分の小ささを強調することになりかねない。ただ、通り一辺倒のことを書いてお茶をにごすなら、私が書く必要はない。個人的なことになるが少し付き合っていただきたい。

 

我々の世代で登山を志す者にとって山野井泰史は本物のスーパースターだった。

 

もちろん私も憧れた。大学で山登りを始め、その世界に魅せられて、山野井泰史のようになりたいと思っていた。だが、人生のすべてを捧げるほど、登山や自分の才能を、信じることはできなかった。大学卒業と同時に就職して「まともな社会人になる」というのは、日本の教育が長年かけて強固にすり込む世界観の1つである。学歴社会全盛期の受験戦争をかろうじて生き残ってきた大学生の私にとって、その世界観を否定するのは難しかった。そして、卒業の見込みが立った年に、時勢に乗って就職活動を開始した。

 

一流企業に就職し、実社会にとって有益な人間であることを証明した上で、数年で会社を辞め、登山の世界に戻る。それが見栄を満たし、夢をかなえる理想だった。もし登山の才能がなければ、熱血サラリーマンとして生きることも可能。当時好きだった女性と家庭を持つのに、定収入を得たいという望みもあった。学生時代に日本の山をたくさん登り、貧乏海外旅行もおこなった自分が、就職を目指す同年代に、人として負けるはずはなく、日本の企業でも戦力になれると思っていた。

 

ときはバブル崩壊後の1993年、就職氷河期の初期である。企業の人事部は、山登りに未練を持っている私の内心を見透かした。会社の駒という生き方に対する疑問が顔ににじみ出ていたのかもしれない。登山の話は生き生きとするのに、企業人としての夢を語れない私に、ある面接担当は「君は就職しないほうがいいんじゃないの」とはっきり言った。

 

秋になり、年末になっても私の就職先は決まらなかった。自分が社会的に価値のない人間だと評価された気がした。その評価をひっくり返すために私に残されていた道は、登山しかないのかもしれない……。

 

登山で生きていくとは、ヒマラヤの高峰や世界の大岩壁で難しい登山を繰り返して名声を得ることだ、と当時の私は考えていた。登山家として格好がつくレベルは山野井泰史かラインホルト・メスナー。だが、それまでにいったいどれだけの修羅場をくぐり抜けなくてはならないのか。今思い返せば、発想自体が貧弱で的外れだとわかる。だが当時は、汚いアパートの一室でどんよりと思い悩んでいた。薄暗い部屋に体育座りのまま宙を睨み、多少は世間の目を引くような存在になったときに、生き残っている可能性を考えて、50パーセントだと見積もった。

 

その見積もりに根拠はなかったが、多少知識があるだけに私にとってはリアルな数値だった。50パーセントの死刑宣告。数年後の生存率が50パーセントと聞いて多くの人はどう思うのだろう。私は消化器官に不調をきたすようになっていった。

 

そんな私を窮地から救ってくれたのは、白山書房という山登りの書籍を専門に出している出版社の社長だった。12月に、とある登山の会合に参加して出会い、「それならしばらくウチで働くか?」と声をかけてくれたのである。

 

社長が編集、奥さんが経理、私が営業という最小単位に挑むような弱小出版社だった。だが仕事は、山と文字表現に関わっており、正社員。会社の規模は当初の予定の1万分の1だったが、他は私にとって理想といえた。会社には有名な登山家が出入りし、取引先の一部は登山用品店だった。ライバルの会社も山岳関係。少しずつ自分の世界が広がっていくのがわかった。

 

山野井泰史を生で見かける機会もあった。最初、遠くからおそるおそる眺めていたが、あるとき紹介されて挨拶し、いつしか顔を合わせると二、三言葉を交わすようになっていった。

 

山野井と話すだけで、自分が登山界の中心に加われたような気がして嬉しかった。社会人3年目に白山書房を休職して、K2登山隊に加わり、それをきっかけに、山岳雑誌「岳人」の編集部に誘われて、仕事を変えた(白山書房の社長は快く送り出してくれた)。

 

時は1996年の年末、山野井の登山ではクスム・カングル東壁初登攀より、少し前のことになる。

 

それは私にとっての山野井泰史が憧れの登山家から、筆者になるということだった。山野井にとってはおそらく、顔見知りが、面倒な頼みごとを持ってくる編集者に変わったということだったと思う。私は山野井相手にそれまでとは別の緊張感を持つようになった。山野井は原稿執筆や対談などを好まない。自分の登山を振り返って、原稿を書くなら、そのエネルギーを次の登山に向けたほうがいいからだ。それどころか、メディアは勝手なイメージを作って押しつける。たとえばこの頃、『ソロ』という山野井を題材にしたノンフィクションが出版された。それは山野井を直接知っている者には評判が悪かった。書き方がやや辛辣だったからだ。

 

ノンフィクションが取材対象におもねる必要はなく、冷徹な文章は第三者として事実を冷静に伝える態度と見ることもできる。ただ『ソロ』の突き放した書き方には、書き手の過剰な自意識が滲んでいた。「俺はわかっているけどね」という態度が透けて見えるのである。

 

「あのライターは、山野井さんを利用して自己表現しているだけだから」

 

あるとき、山野井と『ソロ』の話になったときに私はそう伝えた。山野井本人はとくに何とも思っていなかったようだったが、「なるほどね。うん、そういう風に見ると納得する部分もあるな」と私の分析をある程度は受け入れてくれた。

 

ノンフィクションから書き手の自意識を完全にカットすることは不可能である。この解説も、本書も、「岳人」の編集も同じ穴の狢かもしれない。少なくとも私は山野井の原稿や写真を預かって、雑誌を作ることで、給料をもらってきた。ある意味では誌面作りのために山野井を利用していたといえる。

 

生粋の編集者だったらそれでいいのかもしれない。だが私も山野井同様、登山者の一人だった。どちらかというと編集者であるより登山者でありたかった。だから山野井を食い物にする自分に引け目を感じていた。メディア側としてくくられて煙たがられたくなかった。

 

正直なところ、私が「岳人」に参加した頃は、すでに山野井は大御所であり、山野井泰史の名前が表紙に入っていれば、売れ部数が上がるため、登頂していなくても、記事を書いてもらいたかった。だが山野井は、納得できる登山しか発表したがらなかった。そんな中で、クスム・カングル東壁初登攀(フリーソロ)は山野井にとって会心の登山だったようだ。原稿の執筆と写真の提供を頼んだら、快く引き受けてくれた。他の登山はほとんど渋々だったと記憶する。

 

フランスの山岳雑誌などが主催して1991年に創立された登山賞「ピオレドール(金のピッケル)賞」は当初、ヨーロッパを中心に有名な登山家や大きな遠征の成功に贈られていた。だが21世紀に入って、登山の価値が変わっていくとともに、国籍を問わずに世界中の登山者が行ったアルパインクライミングを対象にして、優れたクライミングに与えられる世界的な賞に変わっていった。

 

日本人の若手アルパインクライマーも、未踏のラインをすばらしいスタイルで登攀し、同賞を複数受賞している。その活躍を山野井の遺産と評するのは受賞したクライマーに失礼だし、山野井も本意ではないだろう。だが、山野井がそういう登山を20世紀の後半に黙々と1人で行っていたのも事実である。日本には山野井の影響を全く受けていないアルパインクライマーなどいない。

 

そこで考える。山野井が若かった頃から「ピオレドール賞」が現在の形態をとっていたとしたら、いったい何度受賞しているのだろうかと……。少なくとも以下の5登山は候補としてノミネートされ、おそらく複数回、受賞しているのではないだろうか。

 

90年のフィッツロイ冬季単独初登、92年のヒマラヤ、アマ・ダブラム西壁冬季単独初登(新ルート)、94年チョー・オユー南西壁単独初登(新ルート)、95年レディーズフィンガー南西壁初登、98年クスム・カングル東壁単独初登。

 

2002年のギャチュンカン北壁登攀は、既登ルートの第2登ということで、候補には加えなかった。そのギャチュンカンで下山中に、山野井と妻の妙子は悪天に見舞われる。そして雪崩に襲われながらの壮絶な下山行で、2人はひどい凍傷を負う。この生還劇は山野井が初めて本格的に書いた著書『垂直の記憶』、そして沢木耕太郎のノンフィクション『凍』でメインテーマとなっており、ご存じの方も多いだろう。この登山は結果的に登山家・山野井泰史の大きな転機となった。

 

「山で死ぬことを許されている人間がいるとしたらそれはオレだよ」といった自虐的な発言が板に付くほど激しい登山人生を送ってきた山野井が、凍傷で手足の指を失って、なおかつ生きている。その後の人生をどうおくるのか。正直なところ、山野井に再びトップレベルの登山が可能だとは誰も思っていなかった。本人も思っていなかったと思う。一方で登山家以外の山野井も想像しがたい。本書はそんな山野井を知るものなら誰もが注目していた、ギャチュンカン以降の山野井泰史の登山人生第2章を記した物語である。

 

ようやくすこし解説らしくなったが、話を進める前に余談をふたつ。

 

山野井夫婦のギャチュンカン登山を遭難という人がいたら間違っている。遭難とは登山中のアクシデントのために、自分たちの登山を自分たちの力だけで完結できなくなり、他人の力を借りることである。凍傷になろうが、脱水に陥ろうが、消化器不全になろうが、山野井と妙子のようにその全部になってよろよろでも、自分たちの力で山を下りてくれば、それはまっとうな登山行為だ。

 

そして余談の二。山野井と妙子はギャチュンカンから帰国して、凍傷に詳しいドクターがいる病院に入院した。登山関係者がひっきりなしにお見舞いに訪れたそのときの様子は、『感謝されない医者─ある凍傷Dr.のモノローグ』に少し記されている。私も2回お見舞いにいった。お見舞いというより自分の楽しみという人が多かったのではないかと思う。日頃ちょっと近寄りがたい山野井が、ケガをして病院に閉じ込められている。山野井にとって単なる知人の自分が、今だけは役に立てるかもしれない。

 

私も山で落ちて長期入院した経験があったので、山野井が欲しているものを予想できた。最初のお見舞いには『スラムダンク』全巻と中華鍋と登山用のストーブ(コンロ)とご飯、豚肉、卵、ピーマン、ネギ(たっぷり)、塩こしょうを持っていって、チャーハンを作った。

 

入院中の山野井は明るかった。基本的にいつも明るいが、同時に必要以上には踏み込ませない厳しいオーラを纏ってもいる。だがこのときはあっけらかんとしていた。遭難必至の窮地から生きて帰った安堵感、そして「近い将来、死ぬかもしれない」と考えなくていい解放感があったのだろう。一定レベル以上の登山を志す者にとって、月曜日が来ることが上手く想像できない、というのは特別な思考過程ではない。週末に予定している登山(登攀)がそれなりのリスクを含んでいれば自然とそうなる。

 

少なくとも私は厳しいと思われる登山を跨ぐような約束をするのが好きじゃない。その登山で死んだら約束が守れない、というのも理由の1つだが、より正確に表現するなら、登山を跨ぐ約束をすると、その登山で越えなくてはならない障害の1つ1つが変に意識されて、気分が悪くなってしまうのである。

 

入院とは登山者にとって、近い将来の緩やかな死刑宣告からの一時的な解放である。体が壊れたことに責任を転嫁して、自分に課した課題を一時期棚上げできるのだ。

 

ケガをしないと自分を許せないほどに、登山で自分を追い込み続けるのはなぜか。そのあたりをわかるように説明するのは難しく、山野井はいくつかの場所で「登山を知ってからずっと冷静な発狂状態にある」と表現している。

 

2回目のお見舞い時には「岳人」の記事のために、フリークライマーの平山ユージ(98年と00年にクライミングワールドカップで総合優勝した世界一のフリークライマー。若い頃、山野井のクライミングパートナーでもあった)と対談してもらった。手足に包帯、車いすで病院近くのファミレスに移動して、山野井のギャチュンカン北壁登攀の価値や、平山がその夏にアメリカのヨセミテ公園で行った世界的なフリークライミングを話題に、人間の限界に挑む2人の話を聞いた(「岳人」2003年1月号に掲載)。

 

本題に戻る。激しい登山を続けてきたぎりぎりの経験と、そこで培われたタフネスさによって、山野井はギャチュンカンでの窮地から生還した。もっとも死に近いと評された登山家が、そう評させた登山の経験で生き残り、肉体の一部を失い、かつてのような激しい人生から遠ざかって生きて行かなくてはならない。皮肉としては単純だが、人生は単純ではない。残された時間を生きて行かなくてはならない山野井が「冷静な発狂」とどのように折り合いをつけるのか。過去の栄光にすがるように自分をごまかして生きるのか。山を忘れ、穏やかな余生を送るのか。なにか別の目標を定めるのか。それは山野井を知るだれもが思い浮かべる疑問だった。

 

本書の読者の中には、強靱な意志と大変なリハビリのすえ、昔の山野井が帰ってきた……、と考えている人もいるかもしれない。だが山野井の肉体的な損失は、治療やリハビリという概念を超えた、文字通りの損失である。あえてはっきりさせておくなら、ギャチュンカン以降の山野井の登山に、世界のトップレベルといえるものはない。オルカの登攀も、平均的な登山者には充分すごい挑戦だが、それまで山野井が行ってきたような人間の能力の限界を示すような行為ではない。

 

昔の山野井が帰ってくることはあり得ない──にもかかわらず山野井はゆっくり自分の登山を取り戻していった。別の意味で山野井は昔のままだった。それが本書にある「答え」だと私は思っている。外野が山野井の登山や人生に関してあれこれ詮索をするのは、ギャチュンカン以前と同じく、まったくの余計なお世話だった。山野井は常に、自分と正直に向き合って、自分の道を進んできたし、これからもそうするだろう。簡単なことではないが、山野井の強みはそこにある。山野井泰史を山野井泰史たらしめた一番の強みは、ブレない自分を常に持ち続けてきたことだ。山野井は誰よりも自分のことを深く考え、誰よりも深く理解し、その上で厳しく評価して、自分を律することができるのだ。

 

「できなかったことが、できるようになっていくのが単純にたのしい」

 

指を失って素人以下に落ちたクライミング能力が、少しずつ上がっていくことを、山野井はそう表現した。周りは(私を含めて)、そうは言っても以前のレベルには絶対に戻らないのに……と、その言葉をむなしく聞いた。だが山野井は、できることをゆっくり増やしていき、自分が納得できる登山に近づいていった。「たのしい」という発言は虚勢でも妥協でもなかった。山野井はただ、山登りが好きなのである。それまでも山の知名度に関わらず、登りたい山、登りたいルートを登ってきた。ギャチュンカンは登山者も知らないようなマイナーな7000メートル峰だった。たいした高峰でもないクスム・カングル東壁のフリーソロを会心のクライミングといった。知名度もスポンサーも求めない、マスコミに出たがらないなどから、孤高と形容されてきた。だがそれは単に自分の山登りを自分が好きなようにしたいからだった。その視点で見れば山野井の行動は、ずっと昔から一本の筋が通っている。

 

登山を志す者は「社会的評価」を欲しがる者と欲しがらない者の2種類に分けられる。誰に注目もされず、社会的な評価を受けなくても、登り続ける根っからの山好きタイプは、実はそれほど多くない。

 

山野井が自己顕示欲のない聖人だというつもりはない。山野井が求めた理想とする登山者のイメージは、これまでの登山者と自分との比較でできあがっているはずだ。自分が本気で打ち込んでいることが、人類の中でどのような位置にあるのか考えるには、比較対象が必要になる。人として深い体験をするために、クライミングにおける人類の到達点を目指すというのは正道だ。先人の登山を分析し、その上をゆくための研究をして、自分を鍛え、自分なりの美意識を加えて、目標の山を定め、登る。おのずとそれは、人類にとってギリギリの行為になり、成功して帰ってくれば、最強、孤高と称えられる。だが山野井にとっては、そのときに自分に必要な登山を、ただ積み重ねてきただけだった。

 

ケガ以降に8000メートル峰をノーマルルートからコレクションするという選択肢もあっただろう。手足の指がなくても山野井なら充分に登れるはずだ。

 

だがそれは登りたい山ではなかった。そして山野井はポタラに、そしてオルカに向かった。

 

指がない上での登攀なのだから、指があるとき以上に厳しかったのではないかという憶測は100パーセント外れである。トップレベルの行為とはそんなに甘いものではない。五体満足を最低条件にして、その上に激しいトレーニングをかさね、さらに現場で100パーセントに近い能力を発揮したからこそ、なしえた登攀である。墜ちたら致命的という危険度は同じでも、行為としての到達点と深みが違う。オルカの登攀には人類のリミットに挑んでいるという手応えと充実感はなかったはずだ。

 

だがオルカは充分に「いい登山」だった。目標設定から、メンバーの構成、現場での登攀、そのすべてにおいて、山野井と妙子と木本のこれまでの経験値、技術、胆力、人間性などなどが一体となり、意志が引き寄せる一期一会の偶然が大きな力を生んだからこそ、作り出せた登山であった。山野井泰史だからこその登山なのである。

 

私はふと思う。もしかして、世界トップレベルの登山に挑み続けていた頃より、ギャチュンカン以降のほうが、世間があまり注目しなくなったいまのほうが、山野井は自由に好きな山を登っているのかもしれないと。

 

私は先に、山野井に憧れて山野井のようになりたかったと書いた。だが、いまとなっては私にその資質がなかったことがよくわかる。私の登山は表現行為としての傾向が強い。ただ好きな山に登っているだけの山野井とはスタート地点も進んでいる方向も全然違った。50パーセントの死刑宣告なんて考えている時点でもう全然ダメ。山野井になるとは、誰よりも登山が好きになるということである。ただ自分の好きな山を、好きなように、たとえ誰に見向きもされなくても登り続けることである。山野井の究極の才能はそこにある。

 

そして山野井は今も大好きな登山を続けている。

 

最後にオルカ以降の話をすこしだけ。

 

実は私の最初の著作『サバイバル登山家』に山野井が序文を(渋々)書いてくれている。2006年のことだ。そこに「熊に襲われて死ぬのも悪くない」という記述がある。

 

ご存じの方も多いと思うが、山野井は2008年に奥多摩の自宅の近くをジョギング中、熊に襲われて大ケガをし、入院した(下山は自力)。その話を最初に聞いたとき「山野井さん、まだレジェンド足りないのかよ」と笑って、不謹慎だとひんしゅくを買った。

 

後日、本人と話したときは「ヒマラヤでいい登攀をしても新聞なんかまったく扱わないのに、家の裏で熊に襲われたら、最終面にでかでかと出たよ」と笑っていた。山野井が入院中に私は見舞いのハガキを出した。そのハガキを妙子さんが「おもしろさに関しては一番だった」と評してくれた。個人に出したハガキなので内容は秘密にしておく。妙子さんに評価されたというのが、いまだに私にとって、とても嬉しい勲章である。

(2013年6月、作家・登山家 服部 文祥)

 

 

 

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