『四色問題』訳者あとがき by 茂木 健一郎

2013年12月13日 印刷向け表示
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四色問題 (新潮文庫)

作者:ロビン ウィルソン
出版社:新潮社
発売日:2013-11-28
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ここ数年、数学が何やらブームの兆しを見せている。『フェルマーの最終定理』や、『ブラック・ショールズ方程式』といった、難解な高等数学に関する本がそれなりの売れ行きを見せ、数学者をモデルにした映画もヒットしている。パズルブームは息が長いし、脳を鍛える手段として、数学のドリルをやることに対する一般の関心も高まっている。

 

このような数学に対する関心の高まりの背景には、数学的なセンスが学問としてだけでなく、実際的な場面で要求される時代の流れがある。金融工学や、インターネット技術などの核心をつかむためには、数学の知識、センスが欠かせない。以前は、数学者といえば世間の実際的なことには関心を持たない、夢想家のイメージだった。今や、抽象数学は時として莫大な富を生み出す。暗号技術や、検索技術など、デジタル情報を安全、確実、効率的に扱うための数学は、欠かすことのできない社会的インフラの一部になっている。数学者は、浮世離れした夢想家どころか、運さえよければスポーツ選手やポップス歌手と同じような富を手にできるスター予備軍になったのである。人々の数学に対する関心の高まりの背後には、どうやらそのような現世のご利益に対する嗅覚があるようだ。

 

その一方で、忙しい現代人にとって、本書のような純粋な数学の本を読むことには、市場経済の中の競争とは無関係な独特の「癒し」効果があるようだ。数学を読んで、魂が癒される。本書を丹念に読んだ方には、誰でもその効果が実感できるのではないか。

 

地図を塗り分けるには四色で十分かどうか? 筆者も書いているように、地図作りの本職でさえ気にかけないような浮世離れした問いである。しかし、その浮世離れした問いに、数学者が意地と名誉を賭ける。次々と、奇妙な手法を繰り出して、必死になって問題を解こうとする。C可約、D可約、不可避集合、放電法……。四色問題に興味がない人にとっては、何のことだか判らないし判りたくもないような概念が次々と提案される。やがて、緻密な概念の建築物が出来上がって行き、ついには達成の瞬間がくる。このような、世間の慌ただしい動きとは離れた精神の砦で行われる数学者の営みには、まるで観葉植物の成長を見ているような癒しの効果がある。

 

現代人は皆忙しい。常にメールやウェブを通して情報を収集し、世の中の動きに目を配っていないと取り残される。事実がそうであるかどうかに関わらず、そう思っている。そんな中、時には、世の中のことには関係のない小さな世界に閉じこもりたい。繭の中で、目を閉じて夢想したい。そんな切実な欲求がある。

 

その欲求を満たすのに、数学の本ほど適したものはない。むろん、ファンタジーの本を読んで籠りたいという人もいるだろう。しかし、ファンタジーの質と広がりならば、数学だって負けてはいない。数学は、太古から変わらない姿でそびえ立つ魔法の王国である。その所在に人類が気付くはるか以前から、その魔法の王国では四色問題が存在し、解答も与えられていた。人類は、ただ、その不思議の国をつたない足取りで歩き、旅する探検者にすぎない。四色問題を手がかりに、数学という永遠の「プラトン的世界」を旅する人々の物語は、この上なく奥深い味わいのあるファンタジーでもあるのである。

 

数学は永遠である。しかし、数学者といえども、時代の条件から完全に独立して活動しているわけではない。四色問題の解決は、その証明の根幹の部分にコンピュータを用いるという、前代未聞の形でなされた。この証明法が数学者の間に巻き起こした困惑と論争は、本書にも記されている通りである。シンプルに本質が掴めることこそが醍醐味であるという数学者の美意識は、おそらくこれからも変わらないだろう。その一方で、数学者のプラトン的世界に、これから徐々にコンピュータが侵入して行くであろうことも、また事実である。科学は、すでにコンピュータによるデータ解析、モデルのシミュレーションなしでは成り立たなくなっている。

 

数学の変質は、実は私たち自身の変貌の鏡でもある。私たちは、次第に、魂の奥まで侵入してくるコンピュータ、デジタル情報のネットワークに支えられて生きざるを得なくなってきている。果たして数学の未来と私たちの運命は重なるのか? 10年後、私たちにとっての美や真実はどんな姿をしているのだろう? 本書は純粋に数学に関する本であるが、その底流には、現代社会における人間の本質に対する鋭い批評性が潜んでいるのである。

 

本書の刊行に当たっては、翻訳家の北村拓哉さんに下訳をお願いし、その上で私が訳文を詰めるという形をとった。難しい数学を扱っている割には読みやすい本になったのも、北村さんの努力に負うところが多い。また、新潮社の北本壮さんには、数式や図の多い本書の面倒な編集作業で、一方ならぬお世話になった。ここに、北村さんと北本さんに心からの感謝を捧げる。

2004年11月

 

 

 

新潮文庫
読者の高い知的欲求に充実のラインナップで応える新潮文庫は1914年創刊、来年100年を迎えます。ここでは、新潮文庫の話題作、問題作に収録された巻末解説文などを、選りすぐって転載していきます。新潮文庫のサイトはこちら

 

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