『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』解説 by 板垣 恵介 

2014年3月12日 印刷向け表示
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木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

作者:増田 俊也
出版社:新潮社
発売日:2014-02-28
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  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)

作者:増田 俊也
出版社:新潮社
発売日:2014-02-28
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強ェえ男が好きだ。強ェえ男を見たい。強ェえ男を聞きたい。強ェえ男を笑いたい。強ェえ男に畏怖えたい。

そんな事を50年以上は考えている。本書はそんな俺の願望を余す所なく、有り余る程満たしてくれている。

50年以上も”強き者”に目を光らせていたハズなのに木村政彦の名はアンテナに掠った程度だった。力道山戦の敗北、柔道界の政治的な意図、理由は様々であろうが、俺はここで敢えて名前に着眼したい。木村政彦という名前だ。あれはマズい。古来、強ェえ男達の名は聞くだけで人を射すくめる力、語感に満ちている。野見宿禰、宮本武蔵、雷電為右衛門もん、嘉納治五郎、武田惣角、王こう齋、牛島辰熊、力道山、植芝盛平、塩田剛三、大山倍達……。ご覧の通りだ。思いつくままに並べただけで怖気づく。何屋か知る前に”この人は絶対強い……”と思い知らせる力がその語感に溢れている。木村政彦……。教師か! 医者か! 耳にした印象と、その実体との落差はもはや擬態と断定できる程のマイルドさだ。

間に合って良かった。増田俊也という男がいなければ俺は生涯、木村政彦を”けっこう強かった柔道家……”との認識しか持てなかった。

本書を読み進めると木村の図抜けた強さに、もう一つの側面が見えてくる。練習量だ。多過ぎるのである。近代スポーツの常識からは明らかに桁外れ、論外、狂気の練習量だ。長らく我々は「オーバーワーク」という運動、スポーツにおける絶対的な信仰を植えつけられてきた。勝敗を決定づけるのは練習量だ! 流した汗は嘘をつかない! 様々なトレーニングの重要さを強調する一方、過ぎたるは及ばざるが如し。やり過ぎる練習はむしろ逆効果である……。と、動かし難い常識を信じ込まされてきた。本書を読むうちに俺はこの常識に疑問を感じ始めた。あの常識は果たして真実なのだろうか……?

偏差値とは無関係な高校をやっとのことで卒業した俺は当然のこと勉強が大嫌いだ。

数学の授業で数字に取り組んでいると、ものの10分程度で言い知れぬムカつきが胸の奥に生じる。そう、俺にとっての数学は僅か10分でオーバーワークがやって来るジャンルなのだ。

社会人になり、出版界に生きるうち、多くの巨大な学歴を持つ人達を知るようになる。彼等に受験時代の思いを聞くと妙なことに気付く。「楽しかった」と言うのだ。中には「まるでゲームのようだった」と言う者までいるのだ。楽しいのだから一日中やっていても、まったく苦にならないと……。ウッソだろ! 俺にとって10分しか耐えられない熱湯を彼等は一日中楽しんでいられると言うのだ。

もうお判りだろう。筋肉も脳も内臓も精神も個人差というものがあるのだ。その事実を知りながらスポーツ関係者は皆、オーバーワークの弊害を口にする。それが間違いであることが本書から浮かびあがってくる。脳がそうであるように、ごく稀にオーバーワークを許容できる天才型の肉体が存在するのだ。

超人的と言われる強さを持つ武道家、格闘家達は皆、オーバーワークと思える時期を経験する。大山倍達、中村日出夫、岡野功、大沢昇等々……。どれも自らオーバーワークへと踏み込み、ファンタジックな領域へと登りつめた英雄達だ。

東京オリンピックを控えるスポーツ関係の皆さん。是非、オーバーワークについて再考、熟慮して頂きたい。

今後、本書をきっかけに著者、増田さんは繰り返し木村政彦を綴るだろう。既にそうしているようだ。そして多くの文筆業、ライターの方々が木村政彦について書き尽してゆくだろう。しかし本家は飽くまでも増田俊也である。ここは譲れない。増田さん、あなたの職業は小説家。しかし本業は違う。どうか本書の文庫化を機会に、「木村屋本店」を堂々と名乗って頂きたい。

(平成26年1月、漫画家) 

新潮文庫
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