ジュンク堂書店池袋本店の名物フェアに「作家書店」があります。各界の著作家の方に数百点の本を選書してもらう大規模なフェアです。現在行われているのは「柴田元幸書店」。翻訳家の柴田元幸さんによるおススメ本がずらりと並んでいます。また、ジュンク堂の公式HPで本のリストの一部を見ることができます。今月は、そんな柴田元幸さんおススメ本のリストの中から2点と、柴田さんの訳書の中から新刊を1点ご紹介致します。
ノーベル賞候補作家の一人、カズオ・イシグロの代表作であり映画化もされた大ベストセラーSF小説。この原書と、日本語訳『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)の両方を柴田さんは推薦している。「My name is Kathy H. I’m thirty-one years old,…」というこれ以上なくシンプルな出だしの文章に引き込まれる。難しい単語はほとんど使われていない。それだけでなく、キャシーという主人公の語り方にはどこか静謐で淡々としたところ、これから語ろうとする自らの過去に対して決して感情的になることなく冷静に向き合おうとしているところが感じられる。それがとても魅力的だ。水槽の中を覗き込み、なめらかに泳ぐ魚達を観察するように、キャシーは自分自身の子供時代を見つめ、回想する。
舞台は20世紀後半のイギリス。へールシャムという名の寄宿学校で育ったキャシー、ルース、トミーの三人。一見、穏やかで洗練された田舎の学校という風情のへールシャム。しかし、この学校は臓器提供のためのクローンの子供たちを育てる学校だということが徐々に明かされていく。彼らは学校を卒業すると、数年後には「donor (提供者)」として臓器の摘出を開始し、3回か4回の臓器提供の後にその短い命を終える宿命にある。この小説はその異常な設定があまりにも有名で、私自身「そんな暗い話読みたくないな」と読むのを避けてきた本だった。しかし、一度読み始めるとそれはあくまで設定であって、著者の伝えたいことはもっと別のところにあることがはっきりしてくる。キャシーによって語られる彼らの子供時代、青春時代の感情は、私たちの経験と何も変わらない。そして、聡明で穏やかな芯の強いキャシーと、火のように激しい性格のルース、感受性の強いトミーの複雑な三角関係のドラマから目が離せなくなる。
この本が世に出た時、なぜ彼らクローンたちが置かれた環境から逃げ出したり、反発したり、革命を起こそうとしないのかと感じた読者が少なからずいたらしい。確かに、主人公たちが自らの運命を受け入れる姿はあまりにも受容的で従順だ。でも、不思議と彼らの姿勢に違和感を感じなかった。私が彼らの立場にいたら、やはり同じように運命を受け入れるのではないかと思ったのだ。閉じられたシステムの中で、理不尽な仕打ちを黙々と受け入れてしまった悲劇の例は世界史を見渡せばいくらでもある。ある時代のある価値観を私たちは受け入れて、耐えて生きていく。あるいは死んでいく。カズオ・イシグロ自身、この小説の着想は「もし人間の寿命が30歳だったら」というところから出発したと語っている。この物語は、科学技術の発達への警鐘でもなければ虐待や差別を批判するものでもなく、人が自分の目の前の運命を、特に、いつかは死ぬという運命をどのように受け入れるのかということを表現している。
水槽の中の魚は自分が人間に観察されているということはおろか、自分が水槽の中にいるということも知らない。自分の生というもの対してほとんど何も知ることのないまま魚は水槽の中で短い一生を終える。クローンとして生まれ、他人に臓器を提供して死んでいくへールシャムの子供たちもそうだ。そして、私たち自身も。なぜ生まれてきたのか。自分たちが「世界」だ、「現実」だと思っているものの外に何が広がっているのか。私たちが預かり知らない遥か彼方から私たちをじっと見つめている存在がいるのか、いないのか。何も知らずにただ生きて、死んでいく。その事実は胸をえぐるように悲しく、美しい。
大学受験前にこの本に出会っていれば!と思ってしまった一冊。説明するよりも引用した方が早いだろう。例えば、誰でも知っている単語driveをこの辞典は翻訳という観点から以下のように説明してくれる。
drive「車を運転する」「車で行く」という意味で頻出する基本的な自動詞だが、いつも同じように訳したのでは単調になる。「車を走らせる」「車を進める」「車を飛ばす」「車で急行する」「…に乗りつける」など、場面に応じて訳語を使い分けるようにしたいものだ。
次の例文ではどうか。Fred and Ann were driving on the expressway to Minneapolis for Ann’s health check-up. この場合、主語が二人なので、「車を走らせていた」では物理的に不自然だし、「車で行っていた」と辞書の定義通りに訳してもしっくりこない。まして、「ドライブしていた」が的はずれであることは、for Ann’s check-upを見れば明らかだ。そこで考えたのが、「フレッドとアンは、車で高速道路をミネアポリスへと向かっていた。アンが検診を受けることになったのだ」という訳し方である。つまり、文法的にはto Minneapolis は the expresswayを修飾する形容詞句と思われるが、これを副詞句に転換することによって、driveを自然な日本語に訳せるわけだ。
よく言われることだが、翻訳とは日本語力だということを思い知らされる。国公立大学の文系を目指す人には心強い本ではないだろうか。そして、英語力と共に日本語力を磨きたい人にも。
初めてケリー・リンクの短篇を読んだ時のショックと感動はなかなか忘れられない。それは、この本にも収録されている「モンスター」というタイトルの話だった。柴田さんが編集している文芸雑誌『MONKEY』に載っていて読んだのだ。話の前半では、サマーキャンプにやってきた子供たちが、微妙な緊張感をはらんだ空気の中で(いつ自分が仲間はずれになったり、いじめられたりするかわかったものじゃない)それでも生き生きと動きまわっている。そして彼らは「モンスター」が出現するという噂に刺激されてその怪物を一目見ようと遠出する。彼らは興奮し、モンスターについて語り合い、半ば怯え、半ば期待しながら夜を迎える。ここまで、私は何となく映画『スタンド・バイ・ミー』の、死体を一目見ようと旅に出た少年たちの物語を読んでいるような気持ちでこの話を読んでいた。とてもリアリスティックな話だと思っていたのだ。だから、夜になって本当にモンスターが現れた時には度肝を抜かれた。しかも、その恐ろしいモンスターは片っ端から子供たちを喰った。たった一人、いじめられっ子で無理矢理女装させられていた小さな男の子ジェームズをのぞいて。
ケリー・リンクは、ファンタジー、SF、純文学、ミステリー、ヤングアダルトなどのこれまで別々のものとされていた文学のジャンルの垣根を軽々と飛び越えて、現代の私たちが心の奥底で感じている不安や喜びや真実を描く。ガールフレンドの墓を掘り起こそうとして墓を間違えてしまう少年。沼地に建てられた高い塔に住む魔法使いの召使として働く子供たち。パンデミックの世界的パニックの中でUFOの到来を待ち望む人々。ハンドバッグの中に広がる村。彼女の作品に登場する人々はファンタジックなのに、なぜか隣人だという感じがする。秋の夜長にぴったりの楽しい作品集。
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