部数は1000部に満たないほど。月2回の発行で、購買料は法人120,000円、個人36,000円(年額)。一般の人にはほとんど知られていない情報誌を発行しているだけなのだが、マスコミ人の誰もに知られ、一流企業の重役たちがその元へと足繁く通う男がいた。
それが最後の情報屋ーー石原俊介。「兜町の石原」とも呼ばれた男は、情報を生業とする人間にとって必ず挨拶すべき人と位置づけられ、彼が発行する『現代情報産業』は、”プロ”だけが手に取る読み物であったという。
本書は、2013年に亡くなった彼の知られざる半生を追いかけた一冊である。だがその半生は、世間を賑わせた経済事件の歴史そのものでもある。撚糸工連、平和相銀、リクルート、イトマン、東京佐川、金丸脱税、ゼネコン疑獄…。 その種の事件の裏側には、必ず石原氏の痕跡が残されていた。
彼の特長は、「人脈交差点」という立ち位置の巧みさにあった。若い時分には共産党へ入党しソ連へも留学。離れてからは右翼団体と同居しながら情報誌を発行するなど、「右と左」の両翼を渡り歩く。また任侠系右翼団体を経て住吉会全体に人脈を広げ、裏の世界へも精通する。
純然たる暴力団だけでなく、総会屋、地上げ屋、仕手筋、高利金融など暴力団の威圧をバックにする勢力がたしかに日本社会には存在し、彼らを抜きに社会構造も事件の背景も知ることは出来なかった時代のことである。
一方でその世界の情報を武器に、証券会社の総務・広報、マスコミ社会部、出版社の編集者といった表の世界の人間とも渡り合うことになる。自ずと「表と裏をつなぐ情報交差点」という立場が確立されていくのだ。
そのような人脈を駆使して得られる情報は、地道に人間関係を構築し、ようやく対面で得られる「生の情報」であり、時代を象徴するスキャンダルにおいても、知ると知らないでは決定的な違いを生み出す「本物の情報」であった。
彼がその筋で最初に名を上げたのが、平和相銀事件である。あまりにも人脈、構図、背景が複雑なため新聞記者も困惑する状況の中、マスコミが触れない「検察の思惑」と「政治との兼ね合い」にまで踏み込み、「情報のプロ」としての読みの確かさを披露した。やがては実績を片手に、企業の守護神としての地位を駆け上がっていく。その様々な舞台裏でのやり取りが、本書では生々しいほどに紹介されている。
たとえば、旧第一勧業銀行の総会屋への不正融資事件。当時、広報部次長を勤めていた小説家・江上剛はこう語る。「石原さんには、東京地検特捜部が、いつ、どんな状況下で、どういう形で強制捜査に入るかを、事前に全部教えてもらいました。」
行内の改革に立ち上がった中堅社員「4人組」による行内改革、それを影ながらサポートしていたのが石原氏であった。情報力、分析力のみならず、情報を使って行内を動かし、改革そのものをリードする。それは企業の危機管理広報が、マスコミが動き出したからでは遅いということをよく分かっていたからこそだ。脅しの要素を一切抜きにして影響力を行使することが出来たのは、ひとえに編集の論理における捌きの妙というより他はない。
また、リクルートコスモス株を多くの政治家や官僚が受け取り、戦後最大の経済事件とも言われたリクルート事件。当時、広報課長、総務部次長として事件対応にあたった田中辰巳は、「石原さんがいなかったら、事件そのものがなかったかもしれない」とまで言う。
リクルート事件は1988年、朝日新聞が「川崎市に株譲渡」と報じられたことから始まるが、犯意の特定も難しく沈静化する動きさえあった。ところがリクルートコスモスの社長室長が野党代議士に現金贈与を持ちかけているシーンの隠し撮りを報道されたことから、再燃していく。
実は石原氏は、この仕掛けを事前に掴んでいたのだという。現金贈与以前の会合で”手心を加えてくれ”と願い出た時にも既に隠し撮りをされており、それを「気をつけろ」と忠告したところ、焦ったリクルート側が会うのを止めるどころか、現金を持っていってしまったというのだ。
またこの時、石原氏が顧問でありながら、『現代情報産業』においてリクルートの記事を書きまくっていたことも注目に値する。金をもらっても言いたいことは言い、書きたいことは書く。それは、誰も気付かない視点を指摘することがリクルートのために役立つと信じていたからである。また、正確に中立的な立場で書けば他マスコミへの牽制になるという思惑もあった。彼の書き方が少しでも違ったものであれば、その後のリクルートの隆盛は見られなかったのかもしれない。
この他にも本書では、イトマン、東京佐川、金丸脱税、ゼネコン疑獄、住専、総会屋、大蔵・日銀といった事件の経緯が事細かに紹介され、最近では武富士や東電の顧問を務めた時の内幕も披露されている。ミニコミ誌であれ、マスコミ誌であれ、一つの事実がどのように報道され、どのような反響を生み出すかという出目が正しく計算出来れば、先手を打てるということがよく分かる。
その半生は、まさに情報の余白に生きたものとも言える。彼がわざわざ「対面から取れる情報」にこだわったのは、「何を言ったかではなく、誰が言ったかが大切」と考えていたことによるものだ。だからこそ、「情報交換以上、友達未満」の関係をあらゆる方向に張り巡らせ、その人間が持っている情報だけでなく、生活している環境や思想・信条まで踏み込むことによって、情報の値踏みをすることが出来た。
一方で、企業活動においてもグレーゾーンという余白が、彼のフィールドであった。しかし、コンプライアンスが重視されタブーが失われていく時代の変化は、彼の食い扶持であるとともに、立場そのものを危ういものにしてしまう。政治経済のシステム崩壊に伴う事件や世情の変化を分析し、顧問先へ対処の仕方を示唆することが生業であったはずだが、全てが終了した1998年以降、石原氏自身も「過去のシステム」として切られてしまうのだ。
かつて情報には、元栓があった。しかし今、情報は毛細血管のように流通している。そんな時代において、彼が信じた「対面から取れる情報」にはどれだけの価値があるのか、それを本書は問うている。
わざわざ対面から情報を取らなくてもプラットフォームに徹して規模を拡大すれば、同じような影響力を行使することは出来るのかもしれない。しかし、情報のベクトルを集合知という形に委ねることだけが、新たな価値を生み出す解なのかと言われれば、疑問を感じずにはいられない。
だからこそノンフィクションを愛する人間としては「対面から取れる情報」には今なお価値があるということを信じたいし、ノンフィクションに求める醍醐味のルーツのようなものを、石原俊介が生きた時代の中に垣間見ることが出来る。