『数学する身体』は、独立研究者・森田真生氏が「数学とは何か」そして「数学にとって身体とは何か」を自問しながら数学の歴史を追いかけた一冊である。その流れは、アラン・チューリングと岡潔の二人へと辿り着く。
そしてこの森田氏の試みを応援すべく、二人の刺客が客員レビューに名乗りを上げた。一人目は科学哲学を専門とし、同じように身体論へアプローチする下西 風澄さん。彼は本書を「格闘の書」と評す。ちなみに2人目は10月21日に掲載。乞うご期待。(HONZ編集部)
私たちが心を高鳴らせるのは、いつも「はじまりの瞬間」である。
数学という完成された美しい建築物を眺め、そして学ぶとき、私たちはその起源を忘却している。しかし、そこには確かに、不安になるほどの未知と可能性に開かれた「はじまりの瞬間」、そしてそこから走り出す物語があったのだ。
本書は、「数学がはじまる瞬間」、その風景を垣間見せてくれる。それは、生まれたての赤ん坊が混沌とした暗闇の中で手足をバタバタと動かしてようやく世界を認識するような、身体と行為に根ざした生成する風景である。
今から2500年程前、数学は実際に手足を動かして始まった。古代ギリシアの数学者たちは、砂の上に木の棒で幾何図形を描き、言葉を駆使して喋りながら数学を「行った」。事実、驚くべきことに、「+」「−」「×」「=」「√」といった計算の記号は、16世紀になるまで登場しない。人々は手の指を使って数を数え、時には肘や肩、胸や足首など全身を使って数を数える方法さえ編み出した。
17世紀、「数学者」デカルトは革新的な数学の方法を開発する。これまで作図しながら解いていた幾何学的な問題を代数的な記号計算の下に統一したのだ。新しい数学は西洋世界を席巻し、直観を記号の操作によって扱う数学が可能になると、その体系の複雑さはオイラーやガウスといった数学者たちを経て爆発的に増大し、もはや人間の身体感覚から遠く離れていく。この記号を操作する手続きを計算として定義したのが20世紀の数学者チューリングであった。彼の数学は純粋な計算そのものを独立させて制御する「コンピュータ」を生み、遂に人間の身体と直観を必要としない計算のシステムが完成する。
数学はわれわれの科学と技術を飛躍的に向上させ、社会は豊かになった。しかし、ここに歴史を通じて「忘れられた数学」があった。
チューリングとほぼ同時代に生きた日本の数学者・岡潔は「数学において自然数の一とは何であるか、ということを数学は全く知らない」と告白する。「数」はそれ自体で独立して存在するのではなく、私たちの「心」と共にあることではじめて存在するというのだ。
かくして岡潔は、数学は「情緒」の学問であるという。「情(こころ)の緒(いとぐち)」としての数学。数学が「わかる」ということは、計算が解けるということではない。それは、自然に染みわたる心が些細な「いとぐち」に導かれて、数学の自然に全身で埋没し、体験し、数学が本来拠り所とする「自然と一つになる」ことではないか、著者はそう問うのである。
「数学における創造は、数学的自然を生み、育てる「心」のはたらきに支えられている。種子や土壌のない農業がありえないように、心のない数学はありえない。その心の働きそのものを、人間の意志で生み出すことはできない。人間にできるのは、それを生かし、育てることだけである」 ―『数学する身体』
チューリングの考えた計算する機械としての数学は、自然現象から人間に理解できる手続きだけを取り出して抽象化する営みであった。対して岡潔は、数学「する」ことはむしろ自然現象への埋没とそこに自らを変容させていくプロセスだと考えた。小川のせせらぎは偏微分方程式で記述することができるが、小川の水それ自身は計算することなく流れていく。数学という思考も、身体という自然の行う計算であれば、その自然過程への調和に向かって己れを変容させていくことこそ、「数学が分かる」という体験ではないか。
むろん、チューリングは自然や心が全て計算によって明らかになると考えたわけではない。しかし確かに「正統」なる数学は、人間の身体や直観では到達不可能な世界を構築する使命を負っている。その意味で本書は、「チューリングと岡潔」という他に類を見ない対比の中で、数学と身体の葛藤を引き出し、それを引き受けた上で改めて「数学とはいったい何なのか」と問う格闘の書でもある。
よくよく考えれば、数学といういささか近寄りがたいその学問は、常に人間の思考の底流を流れる重要な川であった。イデア論を唱え、以後2000年以上に渡って哲学の父として君臨するプラトンはその信念の根拠を数学に求め、ハイデガーやメルロ=ポンティといった華々しい20世紀の哲学を牽引した現象学の祖フッサールは数学者であった。哲学を学ぶ者は人間の思考がいかに数学と交わりながら発展してきたかをよく承知しているが、本書で描かれる数学の苦闘はその過程を新鮮な視点から辿っている。
『数学する身体』は、私たちの「思考の基底」とも言うべき数学の歴史、その2000年の時を疾走する。そして、合理性や有意味性への信仰が無意識に社会を抑圧する現代の雰囲気の中で、数学という「無機質」に思われる学問の中にどれほど合理を超えた葛藤と、無意味さに耽溺する喜びがあるかを訴える。
数学はどこまでも「客観的」で「論理的」で「機械的」である。そういう「期待」を私たちは過剰に押しつけすぎていたのかもしれないし、また逆にそのせいで数学は随分と「味気ない」ものに見えてしまっていたかもしれない。たしかにその期待は、人間は人間を超えたものを創造できるのではないかという人類の「夢」でもあったし、今もなおその夢は続いている。しかし他方で、どれだけ数学が人間の認知限界を超えるほどの複雑で巨大な体系になろうとも、その数学を「する」のは、この有限な肉体を持った小さな人間である。喜び、悲しみ、憂う、あるいは、思考し、走り、踊る、一人の「数学する身体」である。
本書を読み終えると「数学がはじまる瞬間」とは「心がはじまる瞬間」のことだったのではないか、と思えてくる。数学も心も、その「はじまり」はなだらかな暗がりにあって、そこでは私と世界の区別も曖昧だったはずである。作図することがそのまま問題を解くことであり、花の散るのを見ることがそのまま憂うことであった。著者は数学を通して、私たちが「忘れてしまった」あるいは「忘れ続けてしまう」、心の起源へと連れ戻そうとしているのかもしれない。
幾分か暗い時代の気分のなかで、まだまだおもしろい「未知」がある。読者にそう呼びかけるこの本は、読むとどこか明るい気分になる。私にはそれが、ひとつの灯のような、希望の書物であるようにも思えた。
下西 風澄 Kazeto Shimonishi
1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。帝京大学非常勤講師。主な関心は科学哲学、生命論、現象学。執筆に「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8-10月号・筑摩書房)、「纏われる心」(『ファッションは更新できるのか?会議』・フィルムアート社,2015)、「文学のなかの生命」(『みんなのミシマガジン』連載中)、他。
ウェブサイト:kazeto.jp
※客員レビュー第二弾、小石祐介氏のレビューはこちら