『生と死のケルト美学』アイルランド人に学ぶ、アートシンキングという思考法

2016年10月13日 印刷向け表示
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生と死のケルト美学

作者:桑島 秀樹
出版社:法政大学出版局
発売日:2016-09-09
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「ケルト」という言葉は、紀元前600年頃に古代ギリシア人が、西方ヨーロッパに住む異文化集団を「ケルトイ」 (よそ者)と呼んだことに由来する。只、ケルトという言葉は知っていても、その内容を聞かれて正確に答えられる人は少ないのではないだろうか?

現在、ケルトという言葉は、インド・ヨーロッパ語族の語派のひとつであるケルト語派(アイルランド語、ウェールズ語、ブルトン語、スコットランド・ゲール語、コーンウォール語、マン島語)に属する言語を話す人々の文化を指すものとして使われている。只、その実体はつかみにくく、何をもって「ケルト文化」と呼ぶかにはかなり曖昧なところがある。

「ケルト人」と言うと一定の人種を指し示すイメージがあるが、正確には「ケルト語を話す人々」を指し、この中には多くの部族が含まれる。古代ヨーロッパの先住民であるケルト人は、紀元前400年頃には西方ヨーロッパに広く分布していたが、紀元前100年頃からローマ人(カエサル『ガリア戦記』)やゲルマン人に追われ、現在のケルト語は、アイルランド、ブリテン諸島のスコットランドやウェールズ、フランスの一部などに残る少数言語となっている。

ケルト人の歴史については不明な点が多く、古代ローマ人からはガリア人(フランス語ではゴール人)とも呼ばれていたが、ケルト人とガリア人は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々だけがガリア人だと考えられている。

ブリタニア(現在のイングランド、スコットランド、ウェールズ)やアイルランドでケルト語を話す人々のことを「島のケルト人」と呼ぶ。特にアイルランドは、ローマに制服されることもなく、12世紀終わり頃まで外からの影響を強く受けなかったため、ケルトの特色が今でも色濃く残されている。

と言うことで、前置きが長くなったが、本書で紹介するケルトとはアイルランドのケルトのことである。そして、このアイルランドのケルト文化を、『静かなる男』、『ONCE ダブリンの街角で』、『アラン』、『フィオナの海』という4つの映画を題材にあぶり出そうというのである。

アイルランドはその美しく緑が多い風景から、「エメラルド色の島」と呼ばれている。北国のアイルランドがなぜあれほど一年中青々しているのかと言えば、温暖なメキシコ湾流の影響で冬でも緯度が高い割に寒くなく、また降雨量が多く年間を通して平均的に雨が降るためである。こうしたことから、緑色はアイルランドのシンボルカラーとなっている。

アイルランドと言えば、J.F.ケネディ、IRA(アイルランド共和軍)、ジェイムズ・ジョイス、エンヤ、ジャガイモなど、人それぞれ思い浮かべることはあろうが、最近の映画で言えば、2015年に公開された、『スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒』の最後のシーンで、ルーク・スカイウォーカーと主人公レイが出会う、急峻な岩場に覆われた孤島が有名である。

これは、アイルランド南西部の沖合約16㎞に浮かぶ島スケリッグ・マイケル(アイルランド語で、「大天使ミカエルの岩」の意味)である。山頂には588年にケルト人が建てたとされる修道院があり、その後1100年頃に放棄されて現在は無人島になっており、1996年には世界遺産に登録された。

このように、アイルランドは南半球の果てのニュージーランドと同様、北半球における最果ての地として、ヨーロッパ人のノスタルジーをかき立てる原風景として、様々な映画に登場する。(因みに、東の果ては日本ということか。)

本書に登場する4つの映画を順番に挙げると以下の通りである。
−『静かなる男』(THE QUIET MAN)
1952年公開 アメリカ映画
監督ジョン・フォード
主演ジョン・ウェイン
アイルランドの牧歌的な風景と素朴な人々が織り成す人情ドラマ。ジョン・ウェイン扮する引退したプロボクサーがアメリカからアイルランドに帰郷し、勝ち気な娘と恋に落ちて結婚するまでの大騒動を映す。アメリカを離れて自分のルーツであるアイルランドに移り住む主人公ショーン・ソーントンには、アイルランド移民の子であるジョン・フォード自身の郷愁がこめられている。撮影はアイルランド西部で、コリブ湖やアッシュフォード城も近くにあるコングの村で行われた。

−『ONCE ダブリンの街角で』(ONCE)
2007年公開 アイルランド映画
監督ジョン・カーニー
主演グレン・ハンサード、マルケタ・イルグロヴァ
アイルランドの首都ダブリンを舞台に、街角で出会った地元のストリート・ミュージシャンの男(グレン・ハンサード)とチェコ系移民の花売りの女(マルケタ・イルグロヴァ)が、音楽を通して心を通わせていくラブストーリー。

−『アラン』(MAN OF ARAN)
1934年公開 イギリス映画
監督ロバート・J・フラハティ
製作マイケル・バルコン
編集ジョン・ゴールドマン
音楽ジョン・グリーンウッド
アイルランドの過酷な自然に囲まれた島アランに暮らす漁師夫婦一家の、大自然の猛威と戦う日常生活を描いたドキュメンタリー・タッチの人間ドラマ。地質学者で探検家でもあるロバート・フラハティ監督が、アイルランドの西にある孤島アランで18ヶ月に渉り撮影したドラマで、出演者はいずれもアランの島人ばかり。

−『フィオナの海』(THE SECRET OF ROAN INISH)
1996年公開 アメリカ映画
監督・脚本・編集:ジョン・セイルズ
製作:マギー・レンジ、サラ・グリーン
撮影:ハスケル・ウェクスラー
音楽:メイソン・ダーリング
美術:エイドリアン・スミス
原作:ロザリー・K・フライ『フィオナの海』
主演:ジェニ・コートニー

アイルランドの北西に浮かぶ、伝説の妖精セルキーを思わせるアザラシの住む島ローン・イニッシュを舞台に、10歳の少女フィオナ(ジェニ・コートニー)が、幼い頃姿を消した弟ジェミーと再会するまでを描いた、民間伝承と寓話を融合させたファンタジー作品。セルキー はアイルランド神話に見られる神話上の生物であり、海中ではアザラシとして生活しているが、陸に上がる時は皮を脱いで人間の姿になると言われている。

本書の中で引用されている『街道をゆく』第31巻「愛蘭土紀行II」で、司馬遼太郎は、『静かなる男』を取り上げて、アイルランドの気質を、「アイルランド人のとほうもないいこじさ、信じがたいほどの独り思い込み、底抜けの人のよさ、無意味な喧嘩好きと口論好き、それに瑣末なことでも自己の不敗を信じる超人的な負けず嫌い」と記述している。

そして、その裏にある「死んだ鍋」というアイルランド特有の気質について説明している。原語は”deadpan”で「無表情な」という意味だが、要は「アイルランド人のウィットやへらず口は、死んだ鍋のように当人の顔は笑っていない。相手は暫く考えてから痛烈な皮肉や揶揄であることに気付く。相手は決して大笑いできず、かと言って怒ることもできず、一瞬棒立ちになる」 ということだそうだ。

ビートルズのリンゴ・スター(アイルランド系)が、1964年の初のアメリカ公演の際に行われたインタビューで、記者から”What do you think of Beethoven?”(ベートーベンについてどう思いますか?)と聞かれて、”Great, especially his poems.”(素晴らしい。特に詩が良いね。)と答えたそうだ。こういった切り返しが、典型的な”deadpan”ということになるらしい。

著者は、こうしたアイルランド人の思考方法を、「アート・シンキング」と呼んでいる。これは、「脱中心的」で「非直線的」な多重多層な個々のベクトルが、緩やかに結合して自在に変化を繰り返しながら進む・・・そういったイメージである。そして、それが「アイルランドの文化」であり、「アイルランドの美学」なのだと言う。

その上で、近代の科学観、文明観の行き詰まりにあえぐ21世紀の我々に今求められるのは、合理的且つ効率的な「ビジネス・シンキング」ではなく、もっとアイルランド的な「アート・シンキング」を駆使して、人間らしく複雑なまましなやかな豪胆さを携えて生きることだというのが著者の結論である。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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