1918年、トーマス・エドワード・ロレンス大佐はバッキンガム宮殿に呼び出される。ジョージ五世は笑顔で「贈り物があるんだよ」と語りかける。国王の贈り物とは大英帝国勲章ナイト・コマンダーであった。戦争での活躍が評価されたのだ。ロレンスはナイト爵を授かろうとしていた。子供の頃から騎士の物語に憧れ、三十歳になるまでにはナイトに叙せられることを目指していたロレンスは、ついにその夢を手にいれる。しかし次に彼の口から出た言葉は、その場にいた多くの人々を戸惑わせるものだった。名誉を辞退したのだ。彼は自身がもたらした勝利に自責の念を持ち、生涯それから逃れる事ができなかった。
第一次世界大戦においてアラブの反乱軍を指揮し、敵国オスマン帝国を翻弄した戦場の英雄「アラビアのロレンス」とはいかなる男だったのだろうか。彼は引っ込み思案で内向的な性格であり、一人で居る事を好み、関心を寄せる人々を避けるかのように振舞ってきた。その性格はどこか屈折しており、危うさを感じさせる。
中東での彼の行動の結果は、現代においても大きな影響を与え続けている。それゆえに時に英雄と呼ばれ、時に悪魔のような存在とけなされる事もある。ロレンスはアラブの反乱軍を指揮し、アラブ人に独立をもたらそうとした天性のリーダーだったのだろうか。それとも、英国がアラブ人との約束を反故にする事を知りながらアラブ人を扇動し、最後にアラブ人を裏切ったペテン師なのだろうか。ロレンスという男は多くの謎に包まれた存在なのである。
だが、ロレンス以外にも現代の中東情勢に影響を与えたスパイたちがいた。本書はロレンスを中心に、第一次世界大戦中に中東で暗躍した若き四人のスパイたちの物語だ。
ロレンス以外の三人とは、どんな男たちだったのだろうか。ひとりめの名前はウイリアム・イェール。彼はアメリカの大富豪イェール家の御曹司として生を受ける。有名なイェール大学は彼の祖父が創設した大学であることを見ても、その資産がいかに膨大かは想像にかたくない。しかし彼が大学生の時に起きた世界恐慌で一家は破産する。働かねば食べていけなくなったイェールはスタンダード・オイル社に就職しオイルマンとして中東に赴任、第一次世界大戦が始まると同社所属のままアメリカの情報官として中東で情報収集、分析に当たる。後にロレンスと協力しアラブの独立を助けようとする。
クルト・プリューファーはドイツの庶民階級として生まれ、学者となる。完璧なアラブ語を操り、その才能を見込まれ在カイロ・ドイツ大使館の東洋担当官として外交界デビューを果たす。「帝国のスパイ」として名高いオッペンハイム伯の弟子となることで彼の運命は大きく動く。エジプトで反英国ジハードを起こさせようと画策するも英国により、ペルソナ・ノングラート(好ましからざる人物)とされ、外交官としてのキャリアを断たれてしまうが、大戦が始まると中東におけるドイツスパイの元締めとして暗躍する。歴史と言うものは面白いものだ。彼は大戦が始まると自分の愛人、ミナ・ワイツマンをスパイとしてエジプトに派遣するのだが、この女性は英国シオニスト協会のリーダーであり、初代イスラエル大統領になるハイム・ワイツマンの妹である。ミナは兄の敵国でスパイ活動していたのだ。さらに後年、プリューファーがナチ党に魅了され、ナチの外交官として活躍していることを考えると、なんとも不思議な縁としか言いようがない。
最後の男はアーロン・アーロンソンというルーマニア系ユダヤ人農学者だ。彼は最先端の技術を駆使しパレスチナを旧約聖書にあるような緑の楽園にすることを自らの使命と考え、アトリットにユダヤ人農業試験場を作る。シオニズムに傾倒していたアーロンソンは大戦が始まるやこの農場を拠点にユダヤ人スパイ組織NILIを結成する。サイクス=ピコ協定で有名なマーク・サイクス卿などと共謀し、パレスチナにユダヤ人の居住地を築くためにハイム・ワイツマンらと共に奔走しバルフォア宣言という果実を実らせる。だがこれが今にまで続くパレスチナ問題の端緒となるのだ。
しかし、アーロンソンの行動はロレンスとアラブの反乱軍が目指す、汎アラブ国家建設に大きな痛手を与えるのだ。サイクス=ピコ協定とバルフォア宣言は、英国の協力を得て反乱の旗を立てた、フサインと彼の次男ファイサルの立場を危うくしてしまう。アラブの世論が反英に傾き、フサインのライバルであるサウード家に大きな力を与えてしまう。サウード家はイスラムの純化を唱えるワッハーブ派の保護者であった。ロレンスはサウード家が力を得ることがいかに危険であるかを早くも見抜き英国政府に警鐘を鳴らしている。後にサウード家はフサインを失脚させ、サウジアラビアを建国、その王家となっている。王族の一部がアルカイダに資金援助していた事を考えると、ロレンスの警告がいかに的を射ていたかがわるであろう。
ロレンスの敵はオスマン帝国とドイツ帝国だけでなかった。彼は自国政府の帝国主義者とフランスの政府の帝国主義者たちとも戦っていた。本書によるとロレンスはかなり早い段階でファイサルにサイクス=ピコ協定のことを教えていたようだ。自国の秘密協定を第三者の漏らすことは、戦争中という状況を考えれば死刑すら適応されかねない危険な行為だ。
ロレンスはファイサルたちがアラブの独立を勝ち得るためには、反乱をシリアにも拡大しアラブ軍が血を流す必要があると考える。帝国主義の時代では、権益のために血を流すことで大きな発言権を手にすることができる。ロレンスはその冷徹な現実を見抜いていた。反乱の拡大は初期の戦略段階においては英国政府の思惑に反するものであったが、ロレンスは通信手段の不備を巧みに利用しアラブ軍の利益になるよう状況を動かしていく。ロレンスは巧みに官僚機構を手玉にとり、自らの思惑を押し通す。
歴史とは常に多くの人々の合作であり第一次世界大戦の場合、何百万人もの参加者が居た。しかし、これら四人が水面下で果たした役割、ひそかな忠誠心と個人的な闘争は、現代の中東を築くのに手を貸した。結果的にその延長線上に今日私たちが住む世界がある。
作者のこの言葉が示すようにフサイン=マクマホン協定からサイクス=ピコ協定、そしてバルフォア宣言にいたるまでの道には、彼ら四人の野心と闘争の軌跡が深く刻まれている。彼らの活動を丹念に追う事で現代の中東情勢がいかに形作られていったかを知ることができるのだ。さらにロレンスがなぜそれほどまでにアラブ側に肩入れしたのかという、個人の思いが解き明かされていくことになる。難しい歴史の問題を抜きにして、ロレンスという内気な男が見せた奇跡のような人生と、それに続く挫折の物語として読んでも十分に楽しめる一冊だ。