英仏100年戦争の後半期、1405年からパリの住人(名前不詳)が日記を書き始め、それが写本の形で残った。15世紀初頭のパリの実相を伝える貴重な資料としてホイジンガの「中世の秋」にも度々引用されている。本書はその名訳で(Ⅰ巻は2013年刊行)年代的には1419年~29年をカバーする。この時期は100年戦争のまさに白眉の時代であった。
1419年、パリを制したフランスの王族ブルゴーニュ公と結んだイングランド王ヘンリー5世の快進撃が続く中、フランス王シャルル6世はパリを出てトロワに避難。パリのまわりは群盗(レザルミノー)が荒らしまわっていた。「王はいつ帰ってくるのか」と住人は嘆く。「レザルミノーの残忍には前代未聞のものがあり」「だからこそ、フランスの古い敵のイングランド王と協定を結び、フランス王の娘のひとりをかれに与えることが適当であったのだ」とトロワ条約(1420年、次期フランス王位をヘンリー5世に与えた屈辱的な条約)を肯定している。
「カトリーンという名のフランスの娘が出立した。イングランド王がめとってイングランドへ連れていかれるのだ。とりわけてフランス王とその娘にしてみれば旅立ちは哀憐のきわみだった」。1421年、「フランスの娘は、イングランドで、男の子を産み、その子はヘンリーと名付けられた」。後に英仏の王となるヘンリー6世の誕生である。
1422年8月ヘンリー5世急逝。9月フランス王がパリに帰還、パリの民衆は「大領主様の帰来」を喜ぶ。10月フランス王死去、ノートルダムでの葬儀の様子が細かく描写される。ヘンリー5世のサンドニでの葬送の簡素な記述とは大違いだ。幼児のヘンリー6世に代わってヘンリー5世の弟ベッドフォード公(妻はブルゴーニュ公の妹)が摂政となる。この夫妻は住人の描写の好対象となる。
1429年、オルレアンにプセル(むすめ、ジャンヌ・ダルク)が現れて王太子(シャルル7世)側の反撃が始まる。プセルはパリに攻めてくるが「大弓をまっすぐかの女めがけて射る、矢はグサリと脚に刺さる。かの女は逃げる」、もちろんパリ攻略はならなかった。住人はプセルにシンパシーを抱いていなかったようだ。
日記は、食料の値段や、セーヌの氾濫(ノートルダム島は水の下になった)、悪疫の流行など見たものを几帳面に記していく。例えば「フランス全土にコフキコガネが大発生で、果物という果物がみんなやられた。ぶどうも大半が喰われた」これは1425年の記述である。しかし、本書の最大の魅力は碩学のウィットに富んだ訳注にある。これほど素晴らしい訳注には滅多にお目にかかったことがない。余りに読むのが楽しくて時間を忘れてしまった。Ⅲ巻の刊行が待たれてならない。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
出口会長の『座右の書『貞観政要』中国古典に学ぶ「世界最高のリーダー論」』、1/13発売 !