「東日本大震災当時、自衛隊トップの統合幕僚長を務め、映画『シン・ゴジラ』の財前統合幕僚長のモデルとされる伝説の自衛官が、アカデミズムが取り上げない戦史研究の意義、危機の現場で人と組織を動かす極意、地政学を超える地経学の重要性、戦略の成功確率を上げるための戦力回復の真髄まで、ビジネススクールでは教えてくれない戦略の本質を明らかにする。」
こんなうたい文句の本が出版されたので、早速、購入して読んでみたら、確かに極めて内容の濃い本だった。
兵法書や軍事書といえば、孫武の『孫子』とクラウゼヴィッツの『戦争論』が代表格で、両書とも指揮官教育において不可欠な教材として、日本の防衛大学校、アメリカ国防総合大学校、イギリス王立国防大学校を始めとする、各国の国防関係の教育機関で使用されている。
本書は、こうした基本的な古典書から、『甘えの構造』『菊と刀』『失敗の本質』といった日本特有の精神構造を形作る「集合的無意識」、更には心理学的要素を取り入れた「行動経済学」や安全保障に経済的視点を取り入れた「地経学」などの新しい理論を織り交ぜながら、戦略の本質を明らかにしている。
東日本大震災と福島第一原発事故をモチーフにした『シン・ゴジラ』の「ヤシオリ作戦」では、日米の陽動作戦によって倒されたゴジラの口に、高圧ポンプ車から大量の血液凝固剤や抑制剤が投与された結果、ゴジラはようやく活動を停止した。
主人公の矢口内閣官房副長官は、東京駅前にたたずむゴジラを見つめ、「日本、いや人類は、もはやゴジラと共存していくしかない」とつぶやく。
ゴジラは原子力発電の暗喩であり、映画のこのシーンは、ヘリコプターや放水車を使って福島第一原発に向けて冷却水を注ぎ込んだ自衛隊、警察、消防の姿を思い起こさせる。
東日本大震災当時は、原発建屋や原子炉内の状況が東電にさえ全く把握できない状況で、分かっているのは状況が最悪に向かっているということだけだった。時間とのギリギリの勝負という緊急事態において、著者は、自衛隊のヘリによる放水を命ずるという統幕長としての「決断」をしたのである。
自衛隊の「戦略」は、一回の作戦の失敗が国民の生命や国家の存亡に関わるという意味で、いわゆる経営学における企業戦略や経営戦略とは決定的に異なっている。
原発事故であれ、戦場であれ、状況が不透明な中であらゆる事態が発生し、しかもそれが絶えず変化していく。そうした中で自衛隊が最も重視しているのが、「Information(情報)」「Decision(決断)」「Action(実行)」からなる「IDAサイクル」である。
軍隊においては、情報を扱う「情報担当」に対して、「どうすべきか」を考えるのは「作戦担当」の役割であり、自分達が戦略・作戦レベルで何をしたいのか、或いは作戦・戦術レベルでどのように振る舞うべきかなどの選択肢を指揮官に示す。この情報と作戦のバランスこそが、戦略を考える上で決定的に重要なのである。
太平洋戦争におけるミッドウェー海戦やガダルカナル島などでの旧日本軍の敗因は、情報課に比べて作戦課の力が強かったためと言われている。石原莞爾など、旧日本軍で名前を知られている人達は皆、作戦課出身であったため、敵の出方をほとんど考慮せず、自軍のやりたいことだけを優先してしまう傾向があった。
著者は、こうした傾向は現代の日本企業にも受け継がれているのではないかという。企業で言えば、作戦課は経営企画部に当たるが、情報の取扱いについては、かなりの大企業ですら該当部署そのものが存在しない場合が多い。
こうした自衛隊のIDAサイクルに対して、一般のビジネスで馴染みがあるのは「PDCAサイクル」であろう。これは、「Plan(計画)」「Do(実行)」「Check(評価)」「Action(改善)」を繰り返すことで、業務を改善したり、戦略を組織に浸透させたりするものである。
しかし、著者に言わせれば、世の中の変化のスピードが加速度的に速くなり、しかも複雑化している中で、PDCAサイクルという考え方が時代の変化にどこまで対応できるのかが怪しくなっている。例えば、PDCAサイクルでは、第一にPlan(計画)ありきで事が進むが、今の時代では、その計画を策定している間に計画の前提自体が変わってしまうことも多いからである。
戦いの中では、あらゆる状況が発生し、それが絶えず変化し、しかも一度作戦がうまくいかなかったからといって、それをフィードバックして改善するという悠長なことをしている時間的余裕はない。
自衛隊が担っているのは、日本国民の生活や生命であり、もし作戦が失敗した場合、最悪の場合、そこで待っているのは国家の崩壊である。こうしたことから、自衛隊の戦略は「絶対に負けることが許されない」という考えに立脚しているのである。
自衛隊の指揮官が受けるプレッシャーの中で、特に大きなものが時間の制約である。自衛隊の訓練では、意思決定に必要な時間を極端に短くし、その上で任務遂行の障害となる想定以上や想定外の状況を、同時多発的に発生させる。時間の制約があり、判断に必要な情報は十分ではなく、状況も刻一刻と悪化していく。
指揮官は最終的な任務達成のゴールを踏まえて、どの問題に優先的に取り組み、少ないオプションの中でどれを選択すべきかという意思決定を迫られる。しかも、その決定が正しかったのかどうかすら分からないまま、次の状況判断や意思決定に進むということを繰り返すのである。
近年、特にグローバル化に対応する企業にとって、想定外の外部環境要因による経営リスクは年々高まっており、そこでは自衛隊と同じように、メンタル面で極限状況に耐え得る幹部を養成する必要性が生じている。同様に、企業経営において厳しい戦略を実行するためには、経営層だけでなく、ミドルや現場のスタッフまで含めて、心身の健康が保たれていることが求められる。
現在の企業経営は、戦略を実行する人々は常に一定のモチベーションを保ち、幾ら働いてもパフォーマンスが落ちないものとして捉えられているが、実際に戦略を実行するのは機械ではなく生身の人間であり、心身のコンディション次第で大きくパフォーマンスが変わってくるのである。
そのため、自衛隊では、「人は疲労し、疲労が人のパフォーマンスを低下させる」ことを前提として日頃の訓練を行なっている。そして、今の自衛隊は、旧日本軍とは違って、長期的な災害派遣活動などにおいて、能力を維持したまま活動を継続するために休む、即ち、「戦力回復」を最重要視する組織なのである。
東日本大震災の災害支援で実際に「戦力回復」が行なわれたのは、任務の中心が人命救助・探索活動から被災地支援に移りつつあった、発災約2週間後のことであった。それまでは、給食や入浴を制限され、余震の恐怖、二次災害の危険性、更には遺体と直接向き合うという、極めて厳しい環境下で任務を遂行していた。そうした中で、自衛隊員の心身のリフレッシュを行なうことが「戦力回復」であり、その手立ては、睡眠と新鮮で美味しい食事、そして休養だった。
そして、自らのスキルを磨き、できるという自信を持ち、仕事の成果を出す。同時にしっかり休んで、自分の体力や生き方に対する自信を深め、顧客や社会に不可欠な付加価値を提供して感謝されることで、必要とされている自信を身に付ける。そうした「三つの自信」を持つことが生きる力につながり、人は疲労の蓄積を抑え、高いパフォーマンスをあげることができる。
大震災への対応ほどには過酷ではないにしても、緊急性のあるミッションと日常業務を同時にこなさなければならない第一線のビジネスパーソンにとっても、こうした「戦力回復」は極めて重要なのである。
現在、政府の旗振りで「働き方改革」の議論が盛んに行われているが、日本の企業も長時間労働を美徳とする旧来の価値観から脱却し、「日本敗戦」の轍を二度と踏まぬよう、一歩先を行っている自衛隊の合理的なあり方を見習うべきではないだろうか。