財務省の文書改竄問題をめぐってSNS上で繰り広げられている議論の応酬を見ていて残念に思うのは、現政権への好き嫌いの感情をベースに語られた言葉が実に多いこと。そしてやり取りがヒートアップすればするほど、問題の本質からはどんどん遠ざかってしまっていることだ。
今回の一件は、内閣が責任をとって総辞職すればそれですむような話ではない。またリベラルや保守といった政治的スタンスの違いによって見解が分かれるような類の話でもない。なぜなら財務省が手を染めた行為は、私たちの社会の基盤を脅かす危険性を孕んでいるからだ。
かつて公文書管理と情報公開について取材したことがある。その時わかったことは、公的な文書をいかに保存するか、そしてそれをどう公開するかということについて、日本はほとんど初心者のレベルにあるということだった。自分自身、この分野についていかに無知だったかを思い知らされショックを受けた。
いくつか例証を示そう。たとえば「2500:42」という数字をご存知だろうか。これは公文書管理法(2011年4月施行)をめぐる議論が行われていたときによく言及された数字で、前者はアメリカのNARA(国立公文書記録管理局)の職員数、後者は日本の国立公文書館の当時の職員数だ。ちなみに現在、国立公文書館のHPで公表されている職員数は50人なので、状況はさほど変わっていない。
近隣諸国はどうだろうか。中国では公文書を档案(とうあん)と呼ぶが、全国に3600以上もの档案館があり、毎年数百人規模でアーカイブズ(記録資料)の専門家であるアーキビストが養成されているという。韓国では金大中政権の時代に民主化が進み、公文書の扱いを規定する公共記録物管理法が1999年に制定されている。
翻って日本は、歴史的に重要な文書を収蔵する施設の設置を規定する公文書館法ができたのは1987年で、これはOECD加盟国の中でもっとも遅かった。公文書管理法にしても韓国に10年以上後れをとってようやく施行されたというのが現状だ。
実はこの分野についてわかりやすく解説してくれる本は少ない。そんな中、多くを教えられた一冊が『アーカイブズが社会を変える 公文書管理法と情報革命』松岡資明(平凡社新書)だ。公文書管理法施行のタイミングにあわせて出版された古い本だが、非常に重要なことが書かれている。私見だが、本書が出版されて以降、この問題を体系だって概説した一般向けの良書は出ていない。
このことからも公的な記録の保存に関する社会の関心の低さがうかがえるが、最近出版されたものでは、『公文書問題 日本の「闇」の核心』瀬畑源(集英社新書)がおすすめだ。著者は公文書管理の歴史の研究者で、法律雑誌の連載をもとにしているためにトピックス中心だが、公文書管理法が施行されてから現在までにどんな問題が起きたかを理解するのに役立つ。
なぜアーカイブズの思想が重要かといえば、それは私たちが過ちを犯す動物であるからだ。人間が過ちを犯す動物である以上、社会に無謬性を求めることはできない。大切なことは、間違えたときにそのプロセスを検証できるかどうかである。その際、検証に使える材料が多いほど、改善策の精度があがるのは理の当然だろう。
官僚は優秀だが、官僚ほど無謬性の幻想にとらわれている組織もない。だから間違えたときに、彼らにとって都合の悪い事実を隠そうとする。だがその「間違えた」という事実こそが社会の発展のためには欠くべからざる教材なのだ。事実の記録をないがしろにする社会はやがて衰退していくしかない。
ありのままの事実を記録し積み上げていくことは、国家の足腰も強くする。「アーカイバル・ヘゲモニー」という言葉をご存じだろうか。記録を残し積極的に公開する側こそが歴史をつくるという考え方だ。最近、司馬遼太郎賞を受賞して話題の『秘密解除 ロッキード事件』奥山俊宏(岩波書店)は、おもにアメリカで公開された秘密文書をもとに書かれている。質量ともにアメリカで公開されている記録のほうが充実しているからだ。戦後の日米関係の歴史は、悔しいが今後もアメリカ側の視点で語られた歴史がスタンダードとなるだろう。公文書管理と情報公開において、日米の差は歴然としていると言わざるを得ない。
だが歴史を振り返れば、日本にだってアーカイブズの脈々たる伝統は存在したのだ。古くは正倉院文書にはじまる現存する古文書の量は世界最大級ともいわれる。その流れが変わったのは明治時代である。近代国家に仲間入りしようと背伸びをしたために、行政組織が急拡大され、事務量も一挙に増大して、文書管理が追いつかなくなってしまった。加えて明治期の公務員は「天皇の官吏」で、国民に対する説明責任の意識など持っていなかった。いずれにしろ急速な近代化の代償として生まれた記録保存軽視の傾向が、太平洋戦争終結時に軍部を中心に大量の公文書が焼却されることにもつながっていく。
その傾向は公文書管理法が施行された後も変わっていない。公開したくない資料は「私的メモ」とされ、議事録も作成されない。その結果、たとえばTPPの交渉過程ひとつとっても、後世の人間が検証しようにも「なんだかよくわからないうちに決まってしまった」ということしかわからない。責任の所在は曖昧になり、責任を問われないとなれば、政治家の言葉もますます軽いものになっていく。悪循環だ。
先日まで冬季オリンピック・パラリンピックに夢中になっていたので、つい結びつけたくなるのだが、大舞台での選手の圧倒的なパフォーマンスを支えているのは、日々の地道なトレーニングだ。公文書の管理もこれと似ている。アスリートが単調な筋トレを黙々と繰り返すのと同じように、コツコツと事実を記録していく。だがその地味な作業の成果は、着実に社会の底力として蓄えられていく。失敗しても前に進むことが出来るのは、検証のための材料があればこそで、「失われた20年」などと言っている社会は本来おかしいのだ。
事実を記録していくことで後世に資するという考えは、公共の意識にもつながる。都合の悪い記録を残すのはたしかに勇気がいる。だがそれが後世の人々の役に立つかもしれないからこそ、勇気を奮って残すのではないか。
文書改竄問題が投げかけるのは、「私たちはどんな未来を望むのか」という問いだ。いまよりも少しでも良い未来を望むなら、この問題を機に私たちが何をやらなければならないか、その答えはもう明らかだ。