医師にも患者にもバイアスだらけ 『医療現場の行動経済学』

吉村 博光2018年10月09日 印刷向け表示
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医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者
作者:大竹 文雄
出版社:東洋経済新報社
発売日:2018-07-27
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京都大学の本庶佑特別教授のノーベル医学生理学賞受賞が決まり、日本中が湧いている。この素晴らしい快挙の一方で、医療現場では混乱も生じているようだ。がん治療の現場で、医師が手術を選択したにも関わらず、患者側からオプジーボを使用したいと相談があるようなのだ。なぜ、患者側はそう考えるのか。本書は、その「なぜ」に答える本である。

当然のことだが、医師はオプジーボの存在は知りつつ手術を選択している。冷静に考えれば、患者もそれはわかるだろう。しかし、生きるか死ぬかの瀬戸際で、毎日のように「オプジーボで命を救われました」という報道を目にしている患者の気持ちもわかるような気がする。

このような医療現場の意思決定について、現在の医療ではインフォームドコンセント(説明と合意)という手法が一般的にとられている。しかし、情報さえ提供すれば、患者は合理的な判断をできるのだろうか。本書の執筆チームは、ここに昨年ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学の発想をとりいれて鋭く切り込んだ。その発想とは、次のようなものである。

伝統的な経済学の人間像が、高い計算力をもち、取得したすべての情報を使って合理的に意思決定するという、ホモエコノミカスとして想定されていたことを思い起こさせる。行動経済学では、人間の意思決定には、合理的な意思決定から系統的に逸脱する傾向、すなわちバイアスが存在すると想定している。 ~本書「はじめに」より

行動経済学を理解するには、具体的な事例が不可欠だ。本書が力作なのは、わかりやすい事例が多数紹介されている点である。適切な表現の力で医師と患者の溝を埋める「医療現場の行動経済学」の本だけに、読者との溝を埋めるのにも長けている。その事例の一つを、本書から引用したい。

ある手術を行うかどうかについて、つぎの情報が与えられたとき、あなたは手術をすることを選択するだろうか。
A「術後1か月の生存率は90%です。」
では、つぎの情報が与えられたときのあなたの選択はどうだろう。
B「術後1か月の死亡率は10%です。」  ~本書第2章「行動経済学の枠組み」より

医療者にこの質問をした場合に、Aの場合なら約80%の人が手術をすると答えたが、Bの場合なら約50%の人しか手術をすると答えなかったという研究がある。  ~本書第2章「行動経済学の枠組み」より

同じことを言っているにも関わらず、反応が全く異なっている。医療行為に与える影響は大きいだろう。これは、リスクへの態度に関する人々の意思決定の特徴を示したプロスペクト理論(損失回避や確実性効果)を背景にしたもので、フレーミング効果というらしい。行動経済学の主要な理論の一つだ。

行動経済学に関する本は、これまでにもHONZで何度か紹介されてきた。今後おさえておきたい考え方の一つである。第2章では、その考え方の枠組みを非常にわかりやすく、かつ簡潔に紹介している。本書は、行動経済学のおさらいをしつつ、医療現場の課題解決へ活かす方法を紹介している。

つまり、基礎編と応用編が一つになった類まれなる高コスパ本なのである。さらに、自身や親族が病気になった際の、医師との接し方のノウハウまで身につくというオマケまでついてくる。プロスペクト理論の「損失回避」を促すような言い方で恐縮だが、要するに「買わなきゃ損」の一冊といえる。

他のバイアスをいくつか紹介していこう。一般的に患者は「ここまでやってきたのだから」と違う治療に移るのに抵抗があるそうだが、これはサンクコストバイアスというらしい。この場合は、過去のことは忘れて、これからどうするのが最善なのかをゼロベースで考え直すべきだという。

また、「がんが消えた」という情報に踊らされるのは、利用可能性ヒューリスティックというそうだ。合理的な情報を軽視して、身近なところで入手した情報を信じてしまうバイアスのことである。

効果が認められている「がん免疫療法」は、オプジーボなどほんの一握りに過ぎない。しかしノーベル賞報道で「がん免疫療法」という言葉がひとり歩きして、混乱が生じているときく。誇大広告の「広義のがん免疫療法」には、くれぐれも注意しなければならない。

患者側のバイアスばかりあげられると、読者は馬鹿にされたようで気分が悪くなるだろう。しかし、本書が素晴らしいのは、医師・看護師のバイアスにも触れている点だ。例えば、過去に自分がみた患者の重い副作用の記憶などが、バイアスになってしまうこともあるという。

「医者と患者双方が、よりよい意思決定をするうえで役立つ一冊!」

本書のオビをあらためて見直すと、こう書かれている。多くの患者が「なぜお医者さんは不安な気持ちをわかってくれないのか」と思う一方で、医者は「なぜ患者さんは治療方針を決められないのか」と考えている。この溝を埋めるのが本書の目的なのだ。

どう埋めれば良いか。本書では、その具体的な方策も示している。それが例えば、リバタリアン・パターナリズムである。リバタリアン・パターナリズムとは、本人の選択の自由を最大限確保したうえでより良い選択を促す仕組みのことだ。本書から引用する。

代表的なものにナッジがある。ナッジとは、「軽く肘でつつく」という意味である。例えば、企業年金に全従業員を加入させておいて、制度からの退会を自由にしておくことは、デフォルト(初期設定)から変更しにくいという人の特性を使ったナッジである。  ~本書「はじめに」より

他にも、日本では10%前後と低いのにフランスでは100%に迫る水準となっている臓器提供の意思表示の例や、カフェテリアで果物を目の高さに置いて果物の接種を促す例など、様々なナッジを使ったリバタリアン・パターナリズムの事例が紹介されている。

がん検診の受診率をあげるにはどうしたらよいか、子宮頸がんの予防行動を促すにはどうしたらよいか…本書には、他にも、興味深いアイデアが充満している。医療現場のいずれ劣らぬ大問題だ。しかしもちろん、行動経済学のアプローチが有効なのは医療現場だけではないだろう。自分と周囲の接点すべてに、この視点をとりいれてみたいものだ。

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