『幻の料亭 「百川」ものがたり』「百川」に「咄々」する 文庫解説 by 檀 ふみ

新潮文庫2019年05月31日 印刷向け表示
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幻の料亭「百川」ものがたり :絢爛の江戸料理 (新潮文庫)
作者:小泉 武夫
出版社:新潮社
発売日:2019-05-29
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桜の開花のほんの数日前、「銀座吉兆」個室にて。 

それぞれの席の前には卓上ミニ七輪。七輪の上には、出汁が張られた紙の鍋が置かれ、出汁はフツフツと煮えていい匂いを漂わせている。傍らの皿に盛られているのは、淡路の新玉ねぎと若布、そして、桜鯛のお造り。
「旬の出会いです」
 と、店のご主人が説明した。
「さっとシャブシャブして、お召し上がりください」

小泉武夫センセイが「ほ〜お!」と嬉しそうなため息を漏らす。そして、誰よりも早く、シャブシャブッとして、口に運び、「う〜ん!」と、喜びの唸り声を上げる。

ひとしきり鯛が話題の中心となり、魚の王様はなんといっても鯛だが、なかんずく目玉周りのうまさといったらないという話になる。
「『目玉商品』っていうのは、そこからきたらしいね」
 と、さらにシャブシャブしながら小泉センセイ。
 一同が、「ほ〜お!」と頷くと、小泉センセイ、カカカッと笑って、
「ウソです、ウソ!」

……というような、おいしく楽しい会が、「銀座吉兆」のご主人湯木俊治さんの肝煎りで、年に二、三度開かれている。

本書を読んだばかりだったので、ふと思った。これって、「咄咄会」と言えなくないかも……?

「咄々」とは、意外なことに驚いて声を出すさまを表す語で、「おやおや」とか「えっ」、「ぎょっ」、「ほほーお」といった意味だ。

そう文中に説明があるが、私たちの会も、「おやおや」「へぇ〜っ」「ほほーお」というような、「咄々」とした声が、しょっちゅう飛び交っているからである。

もちろん、江戸後期に料亭「百川」にて、文人墨客が集まって定期的に開いていた、本家本元の「咄咄会」とは、規模においても「咄々」度においても、比べ物にはならない。本書をお読みになった方々なら、よくお分かりでしょうが。

それにしても……、江戸で一世を風靡したという「百川」って料亭、皆さんはご存知でした?

恥ずかしながら、私は知らなかった。

ライバル(?)の「八百善」なら知っている。なんで知っているんだろうと思って考えてみたら、これも本(宮尾登美子作『菊亭八百善の人びと』)を読んで知ったのだった。
「小泉センセイは、『百川』って、昔からご存知だったんですか?」
 さっそく伺ってみることにした。
「そりゃあ、知ってましたよ。『百川』って、古典落語の代表作ですもん」

このごろ、にわかに落語ファンとなり、機会があればせっせと高座をチェックするようになった私だが、いまだにその「代表作」には辿り着いていない。

隣にいた阿川佐和子に聞いてみる。
「アンタ、知ってた?」

アガワさんは、お父上の影響で、小さい頃から落語を聞いているから、かなりの「通」なはずである。しかし、やはり「知らない」との答え。

小泉センセイが初めて「百川」に出会ったのは、中学生のときだという。生まれ育った福島の酒蔵(センセイは酒造家の御曹司)で、ラジオ寄席を楽しみにしている少年だった。
「圓生の『百川』を聴いてねぇ。面白かったなぁ」

本書でも、料亭「百川」の注目に値する食材として慈姑を取り上げながら、落語の「百川」に触れ(噺の中に慈姑の金団が登場する)、「この落語を語らせたら、右に出る者無しと言われたのが六代目三遊亭圓生である」と、紹介している。

そこまでおっしゃるなら、聴いてみたいではないか、圓生の「百川」。さっそく、探し求めて、聴いた。いやはや、聴き惚れてしまった(私がチェックしたのは映像である。慈姑を、目を白黒させながら丸ごと飲み込むくだりがあって、圓生の至芸に客席が笑いの渦となるが、小泉少年は、音声だけのラジオに、想像をうんと逞しくしたにちがいない)。

もともとは、店の宣伝のためにと、実際にあった出来事を下敷きに、「百川」が、出入りの文人たちに創ってもらった噺であるらしい。

そう言われれば、たしかに笑いのうちにも、「百川」という店の輪郭がくっきりと浮かび上がる仕掛けになっている。

まずは、田舎者の実直さを好ましく思って雇い入れる、主人の懐の深さ。この主人とは、本書でも活躍している百川茂左衛門なのだろうか。だが、雇い入れたばかりの田舎者、百兵衛のとんでもない訛りによって、数々の騒動が引き起こされる。

客は、魚河岸の若い衆で、しかもリーダー格ときている。こういう店に、イキのいい魚が入っていないわけがない。

さらに、百兵衛に間違って呼ばれてしまい、押っ取り刀で店に駆けつけるのが、御典医も務めたほどの実在の名医だという。「百川」の実力、格式がそれとなくほのめかされている。

しかし、そう思うのは、本書であらかじめ、料亭「百川」についての知識を、たっぷりと仕込まれていたからかもしれない。
「百川」だけではない。江戸の成り立ち、江戸の食文化、江戸人の酒の飲み方、「下戸」「左利き」「虎」の語源まで、本書にはウンチクが満載である。

家康公は魚が大好物だったって、ご存知でした? 日本橋に魚河岸が発展したのは、そのおかげといっても過言ではないらしい。河岸の周辺には、当然、それを食べさせる店もあらわれる。日本橋浮世小路の「百川」は、その筆頭といってもいい(落語「百川」の客が魚河岸の若い衆なのも、決して宣伝のための作り話ではないのだろう)。

我が「咄咄会(もどき)」では、しかし、小泉センセイは、ほとんどウンチクを語られない。どちらかというと、「ほーお」「へーえ」「やややっ!」などの「咄々」専門である。

喋っているのはほとんど、天然の饒舌のアガワサワコか、口から生まれた双子座のダンフミである。
「だけど、小泉センセイって、本当にいろんなことをご存知ですよねぇ」

双子座が口火を切ると、饒舌がすぐに言葉を引き取る。
「この話をすると、四時間ぐらいかかるんだけど、この間、ヤマザキマリさんとお会いしたらね……」

四時間もかけられては困るので、「かいつまんで」と懇願すると、
「つまり、日本人は一つのことを極めた人をスゴイと言うけど、イタリア人にとっては、あらゆる教養を持っている人がスゴイんですって。要するに、小泉センセイはスゴイ!」

小泉センセイが、またカッカッカと喜ぶ。
「イタリア人か、オレは!」

たしかに小泉センセイは、「食」を核にした、あらゆる教養と好奇心と行動力をお持ちである。
「百川」の常連であり、「咄咄会」の名付け親である大田南畝もまた、江戸のマルチな文化人と言ってよく、小泉センセイと重なる部分が多い。調べて書いていくうちに、南畝に惚れ込んでしまったのではなかろうか。少なくとも、読んだ私は惚れてしまいました。
「蜀山人」「寝惚先生」「四方赤良」など、数々の名前を持っていた南畝。小泉センセイも、「発酵仮面」「味覚人飛行物体」「ムサボリビッチ・カニスキー」などの別名をお持ちである(「発酵仮面」「味覚人飛行物体」は、登録商標の手続き済みという)。

だがさて、なんといっても「百川」は料亭なのである。いちばん興味のあるのは、もちろん料理である。そこは、「味覚人飛行物体」にぬかりのあろうはずがない。タイムマシンに乗って、江戸時代まで行って食べてきたのではなかろうかというくらい、リアルに料理が再現されている。「カリカリ」「ムシャムシャ」「チュルチュル」「ピュルピュル」などと、オノマトペが炸裂しはじめたら、著者の面目躍如。

ことに、南畝をはじめとした「山手連」が改良に加わった「百川」秘伝の調味料「浮世之煎酒」のくだりは圧巻で、これは是非とも作って試してみなくてはと、私はひそかに決意したことである。しかし、精進節をどこで手に入れればいいのだろう。ここは、「発酵仮面」の商標のもと、小泉センセイに作って売り出していただくのがいちばんかもしれない。同じく、「百川」でしか手に入らない、絶品のお土産「乾板の味噌漬け」も、よろしくお願いいたしたく存じます。

さて、本書最大の「咄々」は、最後にやってくる。黒船でやってきたペリー一行をもてなしたのが、他ならぬ「百川」だったって、皆さん、ご存知でした? アメリカ側三百人、接待する日本側二百人、合計五百人分。しかも、出張である。食材はもちろんのこと、大皿、小皿、丼、小鉢、杯、銚子……アメリカ人をうならせるような豪華なものを、すべて運び込まなければならない。一体、どうやって切り抜けたのか。

そこから先はミステリーとなる。隆盛を極めていたはずの「百川」が、明治維新以降、忽然と姿を消してしまったのは、一体なぜか。

なんと「咄々」たる話に満ちた一冊だろう。

(2019年4月、女優)

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