一気読み必至の警察ノンフィクション!『警視庁科学捜査官』

首藤 淳哉2021年04月12日 印刷向け表示
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警視庁科学捜査官 難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル
作者:服藤 恵三
出版社:文藝春秋
発売日:2021-03-25
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読み始めた途端、あの日の記憶が鮮明に甦った。
1995年3月20日、月曜日の朝だった。地下鉄で「異臭事件」が発生したとの一報を警視庁記者クラブで聞いた。当時の無線記録によれば、通信指令本部に八丁堀駅での乗客の異変を知らせる無線が入ったのは8時21分である。3分後、築地駅から「ガソリンがまかれた」との情報が入り、他の駅からも相次いで被害報告が入った。建物を飛び出し霞ヶ関駅に走った。近づくにつれ言葉を失った。そこには日常が完全に暗転した光景が広がっていた。

原因物質が「サリン」であると発表されたのは午前11時だった。
ロス疑惑やトリカブト事件などを手がけ「伝説の一課長」と呼ばれた寺尾正大捜査第一課長の憤怒の形相は生涯忘れないだろう。本書を読んで、事件の一報からサリンと発表されるまでに何が起きていたのか、そのディテールを初めて知った。

著者は当時、警視庁科学捜査研究所(科捜研)の係長だった。捜査員が科捜研に駆け込んできたのは、9時5分頃だったという。ビニール袋には築地駅で車両の床面を拭き取ったものが入っていた。この時、捜査員が重要なことを述べた。
「みんな一様に『暗い暗い』と言っています。実は私も今、暗いんです」
捜査員の目は瞳孔がピンホールのように小さくなっていた。「縮瞳」である。著者は有機リン系の毒物だと直感する。

通常、ガスが発生する毒物資料を処理する際は、室内に危険なガスが出ないように排気が無毒化されるドラフトチェンバーを使う。ところが当時の科捜研にあったのは簡易ドラフトで、排気の無毒化装置がついていなかった。
「これじゃダメだ」
とっさの判断で著者は屋上に駆け上がった。着いてからゴム手袋とマスクを忘れたことに気づいたが、部屋に戻る時間が惜しい。なんと著者は風上に背を向けると、息を止めたまま作業を始めるのだ!

液体が揮発しないよう処理し、通常の分析プロセスをすっ飛ばしてガスクロマトグラフ質量分析装置にかけると、モニターに構造式と〈Sarin〉の文字が表示された。9時34分だった。

ところが、サリン検出を一刻も早く報告しようとするも、一課の管理官に止められてしまう。他の駅で採取した資料もあわせて確認してから上に報告するというのだ。既にテレビでは「毒物はアセトニトリルらしい」と誤った情報が流れていた。「まずは一報を」と異を唱えた著者を管理官は怒鳴りつける。正確を期すのは役人の習性なのだろうが、一刻を争う非常時にも平時の発想のままの者がいたことに驚く。2つ目の検査結果が出て報告の準備が整った時には、ゆうに10時を過ぎていたという。

山梨県上九一色村のオウム真理教施設の一斉捜索で大量の化学物質が押収されたことで、著者は捜査の最前線に関わるようになっていく。東京理科大学で分析化学を学び、医学博士でもある著者の知識が必要とされたのだ。

「土谷に会ってきてくれませんか」
一課長から声をかけられたのは、4月28日のことだった。
オウムの科学部門の責任者のひとり、「第二厚生省大臣クシティガルバ」こと土谷正実は、取り調べに黙秘を貫いていた。

土谷と二人きりにしてもらい、「面白い研究してたんだね」と語りかけた。筑波の大学院で有機物理化学を専攻した土谷に、著者は科学の言葉で語りかけていく。用意していた白紙の束に、著者が黙ってサリンの反応式や科学データを書いていく場面は圧巻だ。目を瞑っていた土谷がいつの間にか手元を目で追っていた。反応式は文献には載っていない独自のものだった。著者は押収資料を深く読み込むことで合成法を突き止めていたのだ。自分で考えた合成法をなぜ知っているのか。いつしか土谷は腰を上げて内容を覗き込んでいた。

5月11日、土谷が完落ちする。「警視庁には凄い人がいる。私がやったことはみんなわかっているんだったら、黙っていてもしょうがない」と述べたという。

ここまでで、まだ第1章に過ぎない。いかに本書の情報量が凄まじいか想像していただけると思う。しかも著者が本領を発揮するのはまだこれからなのだ。

地下鉄サリン事件の翌年、著者は警視庁史上初の科学捜査官に任命された。
科学捜査の必要性は昔から叫ばれてきたものの、これまではスローガンの域を出ることはなかった。だがオウム真理教事件が状況を変えた。なにしろ教団は化学プラントを持ち、毒ガスや細菌兵器の研究まで行っていたのだ。警察も犯罪の高度化に対応しなければならない。物理・化学・医学・数学などの科学的理論をいかに捜査現場に適用するか。その方法を具体的に示し、結果を出し、判例を作っていく作業が必要だった。著者はこれを「真の科学捜査」と名付け、実現のために警察人生のすべてを捧げてきた。本書はその濃密な回想録である。

著者が関わった事件は有名なものだけでも、「和歌山毒物混入カレー事件」「長崎・佐賀連続保険金目的父子殺人事件」「国立療養所医局アジ化ナトリウム混入事件」「ルーシー・ブラックマンさん失踪関連事件」「44人死亡歌舞伎町一丁目ビル火災」などが挙げられる。首都警察である警視庁の人間であるにもかかわらず全国からお呼びがかかっているは、それだけ著者の科学的知見が必要とされたからだろう。しかもそれぞれの現場で著者は結果を出した。

「科学捜査官」と聞くと、科学を武器に名探偵よろしく難事件を解決する姿をイメージする人もいるかもしれない。警察の中にも著者をパトリシア・コーンウェルの小説の主人公、検屍官ケイ・スカーペッタになぞらえる声もあったらしい(個人的にはむしろジェフリー・ディーヴァー作品の主人公リンカーン・ライムのほうがしっくりくる)。だが現実の捜査はチームで行うものだ。その中で著者の最大の貢献は、現場の捜査員のために「捜査支援システム」を構築したことにある。

役所のデジタル化が遅れていることは周知の事実だが、捜査現場も例外ではなかった。著者が関わったある捜査本部では、現場周辺の地図を作るのに、ページごとに縮尺の違う住宅地図を苦労してコピーしてはつなぎあわせていた。書き込みにミスが生じるたびにいちいちつくり直さなければならない。防犯カメラの場所などもデータ化されておらず、その都度調べて書き込むというありさまだった。

こうした惨状を目の当たりにした著者は、詳細な住宅地図やデータベース、各種解析機能を搭載した捜査支援システム「DB-Map(Database-Map System)」を作り上げ、あわせて、防犯ビデオ等の画像情報を迅速・的確に解析する捜査支援用画像解析システム「DAIS(Digital Assisted Investigation System)」も開発した。

これらはさっそく威力を発揮した。
「あんたに頼むと何でも解決してくれるんだって?」
嫌味とともにある管理官が押し付けてきたのは、5年ほど前から杉並区と世田谷区で連続発生していた性犯罪だった。ところが著者はわずか1週間で犯人を特定してしまう。

ただ、本書にはこうした手柄話ばかりが書かれているわけではない。むしろ苦い記述が多いかもしれない。役所は前例のないことを忌み嫌う。「真の科学捜査」をなんとか根付かせようとする著者の試みは、しばしば挫折を強いられる。出世競争に専念すれば高い地位を得ることもできたはずだが、事件が著者を放してくれなかった。捜査に打ち込むうちに後輩にどんどん追い越されていく。支援システムの予算も打ち切られ、心ない噂も流される。メンタルをやられてしまい、家族に支えられてようやく立ち直る様子も描かれている。こうした記述が本書に深みをもたらしている。

常々感じていることだが、日本の組織では上に行けば行くほど愚かな人間が増えるように思える。それでも組織が崩壊しないのは、現場が優秀だからではないか。あらゆる組織は現場の奮闘によって支えられている。

警察人生の終盤、著者は後進の育成にあたった。その教え子が著者に涙を流しながら思いを訴える場面が出てくる。教え子の言葉に心を動かされる読者は多いだろう。著者の志は現場の人間に確かに届いていたのだ。

社会に技術革命が起きれば、犯罪者も必ずそれを悪用する。想像もつかないような新しい手口の犯罪がこれからも起きるに違いない。だが恐れる必要はない。著者の志を受け継いだ者たちがきっと「最後の砦」になってくれるはずだ。

科学捜査の圧倒的なディテールと熱い情熱。
読み始めたらもう本を置くことはできないと覚悟してほしい。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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『決定版-HONZが選んだノンフィクション』発売されました!