本書は2021年に刊行されたジェフ・ホーキンスのA Thousand Brains: A New Theory of Intelligence の全訳である。原書は2021年のフィナンシャル・タイムズ紙のベストブックに選出されたほか、ビル・ゲイツの「今年おすすめの5冊」にも選ばれ、「人工知能はとりわけSF作家の想像力をかきたてる題材だ。真のAIをつくり出すのに必要なことについて知りたいなら、この本がとても興味深い理論を提案している。ホーキンスは……数十年前から神経科学と機械学習のつながりについて考えていて、この本でその考えをわかりやすく手ほどきしている」と評されている。
ジェフ・ホーキンスといえば、1990年代に携帯情報端末「パームパイロット」を世に送り出し、「モバイルコンピューターの父」の異名をとる、IT業界で大成功を収めた企業家として知られる。しかし本書にも記されているとおり、彼はもともと脳について知りたいという強い思いを抱いていた。そのために大学卒業後に勤めていたインテルを辞め、あちこちの大学の研究室の門戸をたたいたが、自分の望む脳の総合的理論を研究する道を開くことができなかった。そこで彼が選んだのは、いったんコンピューター産業界にもどって、脳研究のチャンスをねらうことだった。この柔軟で臨機応変な考え方が、ホーキンスの異色だが充実したキャリアの原動力なのだろう。そしてねらいどおり、モバイルコンピューター事業で築いた資産を投じて、自分のやりたい研究ができる研究所をみずから設立したのだ。いまや思う存分、脳の(とくに新皮質の)機能理論を探究し、さらにはその理論を機械知能に応用する方法に取り組んでいる。
このように大学や政府機関にほぼ頼ることなく脳の研究を続けてきた著者が、現時点での成果を世に知らしめるために著わしたのが本書である。ホーキンスの一般読者向け科学書としては、2004年刊行のサンドラ・ブレイクスリーとの共著。On Intelligence: How a New Understanding of the Brain Will Lead to the Creation of Truly Intelligent Machines(邦訳『考える脳 考えるコンピューター』)に続く二作目である。前作ですでに、いわゆる人工知能と人間の知能は別物であって、真の知能をもつ機械の実現には脳を理解すること、なかでも「予測する」という脳の働きが重要だと説き、これには当時のAI研究者も少なからず影響を受けたようだ。
それから17年、ホーキンスの脳理論には大きな進歩があった。脳がどうやって予測するかを解明したのだ。第1部でその理論的枠組みが明らかにされる。カギは「動き」と「座標系」。予測するにはまず、世界はこういうものだというモデルを学習する必要がある。たとえばコーヒーカップという物体がどういうものかを知るのに、一点に触れたままでは何も学習できない。指を動かすことによって、指で感じるものがどう変わるかを知るのが学習だ。そうするとカップのふちや底や取っ手のような特徴の位置関係、つまり物体の構造を記憶することになり、その記憶をしまうために脳がつくり出すのが、地図に似た座標系である。しかもその座標系を、新皮質を構成する何千何万という「皮質コラム」という要素それぞれがつくり出し、それをもとに皮質コラムそれぞれが予測を行なう。言ってみれば、脳はひとつではなく何千もあるというのが「1000の脳」の意味なのだ。
さらに興味深いのは、座標系はカップのような外の世界の物体を認知するためだけでなく、人が直接感知できない知識を整理するのにも使えるという主張だ。たとえば政治や数学といった、概念についての知識もすべて座標系に保存されるので、物理的空間内を歩きまわるのと同じように、座標系内の概念から概念へと動いていくことが思考だという。数学者は方程式という数学の概念を座標系にきちんと保存しているので、似たような方程式に遭遇したとき、どういう演算でその座標系内を動きまわればいいかがわかる。しかし数学に疎い人の場合、脳が座標系をつくっていないので、方程式を解こうとしても数学の空間で迷子になる。地図がないと森で迷子になるのと同じだ。このように脳の働きを動的にとらえ、どこも同じように見えるのに異なる機能を果たす新皮質の各領域が、じつは共通の基本アルゴリズムを実行しているとする理論は画期的である。
こうした脳理論を踏まえて、第2部では著者の考える知能を備えた機械について詳述される。ここであらためて現行のAIにI(知能)はなく、「新しい課題をすばやく学習し、異なる課題間の類似性を理解し、新しい問題を柔軟に解決」することができてこそ、人間と同じレベルの知能を示す機械、すなわち汎用人工知能(AGI)になるのだと力説している。そしてそのような機械の形態も用途も、まだ誰も予想していないものになるだろうという。1992年、いま私たちが当たり前に使っているSNSはおろか、携帯電話のデータ通信も、映像や音楽の配信も、Wi‐Fiもブルートゥースもなかった時代に、インテルの幹部社員に向けて携帯型コンピューターの重要性を訴えて、「人はそれを何に使うんです?」と小馬鹿にされた著者だからこそ、テクノロジーが人の想像力を超えることを痛感しているのだろう。
知能をもつ機械についてもうひとつ強調されているのは、それがSF小説や映画で描かれるような、人類を脅かすものにはならないだろうという見解だ。その根拠は古い脳と新しい脳の役割分担にある。新しい脳が知能と合理性の座であり、人類を脅かすのは古い脳がつかさどる欲望と感情なので、それを人間が意図的に機械知能にもたせないかぎり、機械知能を恐れる必要はないのだ。コンピューター技術者でありながら、脳神経学を探究しているからこその知見といえる。
逆に、人間の知能こそが人類にとって脅威になりうる。その論点から、人間の知能について掘り下げるのが第3部だ。人間には知性の新皮質だけでなく、当然、衝動を優先する古い脳もある。あらゆる動物が生き延びて繁殖するのを助けるように進化してきた古い脳の生存欲求が、知能を備えた新皮質の生み出すテクノロジーを支配するとき、人口過剰、気候変動、核兵器、遺伝子編集といった、人類の生存を脅かしかねない問題が生じる。結局、機械知能は人間にとって道具であり、どんな道具も使い手次第なのだ。
そして私が個人的にとても興味を覚えたのは、第3部の後半である。人間の知能のせいかは別にして、地球が人の住めない場所になったときのための火星移住計画は、発想として珍しくはないが、その移住地建設に必要なものこそ、真のAIを備えたロボットだと著者は力説する。そして火星に住むのに適した人間を遺伝子編集でつくり出すのはどうだろう、とも。さらには、いつか人類が絶滅することは必然だ。それを前提に、人類が存在したことや蓄積された知識という遺産を、ほかの知的生命体に伝える方法をホーキンスは考察している。太陽光を人工的なパターンで遮断する衛星を太陽の周回軌道に乗せるとか、その衛星に知識のアーカイブを搭載するとか、凡人には途方もない荒唐無稽なことに思えるが、著者はいたって真剣だ。たとえ机上の空論でも、
さまざまなシナリオを議論することから、思わぬブレイクスルーが起こるかもしれないし、遠い未来のことなど誰にもわからないのだ。そして新皮質を進化させた人間は、「利己的な遺伝子」の命令に逆らい、方向と目標をもって生きることができるのだと著者は説く。いかに人間の知能と知識を誇りに思っているかが伝わってくる。独立独歩で研究と実業の二足のわらじを履いてきたホーキンスが、この先、どんな理論を実証し、どんな製品でビジネスを展開するのか、楽しみだ。
2022年2月 大田直子