『カミカゼの幽霊』死人となって戦後を生きた男の物語

2023年7月19日 印刷向け表示
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
作者: 神立 尚紀
出版社: 小学館
発売日: 2023/6/30
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

特攻兵士の遺書ほど読むのが辛いものはない。先日も海上自衛隊佐世保資料館を訪れた際に目にする機会があった。遺書は母親に宛てたもので、育ててくれたことへの感謝と立派に最期を遂げたいという覚悟が綴られていたが、「母様」という呼びかけに、そこに記すことのできない思いのすべてが込められているような気がして、胸が苦しくなった。

特攻は愚劣極まりない人命軽視の戦法である。中でも太平洋戦争末期の1944年、日本海軍が開発した特攻兵器「桜花」の非道さは際立っている。まず形状からして異様だ。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席がついた外観は、見るからに主役は爆弾である。操縦する人間はいかにも付け足しで、人命軽視の思想をそのまま形にしたかのようだ。

桜花は母機の一式陸上攻撃機に吊るされて敵艦隊の近くまで運ばれ、投下されるとグライダーのように滑空し、目標を定めると尾部に内蔵したロケットに点火して加速、そのまま敵艦に突っ込む。脱出装置も着陸装置もなく、ひとたび母機から切り離されれば、搭乗員は絶対に生還することはできない。これを非道と言わずして何と言おう。

桜花の部隊は「第七二一海軍航空隊」、通称「神雷部隊」と呼ばれ、現在の茨城県鹿嶋市にあった神之池基地を拠点とした。1945年3月21日、高知県の足摺岬南方に来襲した米海軍機動部隊に向け出撃したのを皮切りに沖縄方面への特攻出撃を繰り返し、戦没者は829名にものぼる。

本書はこの人間爆弾・桜花を発案した大田正一の消息を追ったノンフィクションである。公式の記録では、大田は終戦3日後の8月18日、遺書を残し、訓練用の戦闘機に乗って神之池基地を飛び立ち、そのまま洋上で行方不明となり殉職したとされる。ところが彼は生きていた。名前を変え、出生地や生年を偽り、結婚し子供をもうけ、市井の人として戦後を生き抜いていた。驚くべき事実が記された一冊だ。

著者のもとに講談社を通じ「大田正一の遺族」を名乗る人物から連絡があったのは2014年のことだった。雑誌「FRIDAY」のカメラマンだった著者は、旧日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)の取材に関わったのを機に、戦争体験者の聞き書きを始め、すでに何冊かの本も出していた。言伝を預かった編集者によれば、くだんの人物は大阪の東淀川区在住の大屋美千代という女性で、自分は大田正一の長男・大屋隆司の妻で、どうしても著者に話したいことがあるという。

実はかねてより一部の旧海軍関係者の間では大田正一生存説がささやかれていた。だが、これまで何人もの戦史研究家や作家がその行方を追い、なかには生存説を裏づけるエビデンスや証言を収めた書籍も世に出たものの、本人の肉声や確かな足どりを伝えるものは皆無だった。生きていたのが事実ならたいへんなニュースである。

ただ、にわかには信じられなかった。「長男の嫁」なのになぜ大田と姓が違うのかが不思議だったし、これまでの取材で、死んだはずの著名な軍人が実は生きていた、という話を聞かされることが何度もあり、調べるとことごとくガセだったという徒労も経験していた。今回も大田正一を騙る別人の親族による思い込みなのではないかと疑ったのである。

ところが、大屋隆司と美千代の話は驚くべき内容だった。大田正一はたしかに生きており、戦後、想像を絶するような人生を歩んでいたのだ。

大屋隆司はかつて横山姓を名乗っていた。父親の名前が「横山道雄」だったためだ。ところが中学3年生のある日、母の義子から「これがお父さんのほんとうの名前なんやで」と一通の便せんを見せられた。そこには母の字で〈海軍特務少尉 大田正一〉と書かれていた。

母によれば、これまで黙っていたが、父には戸籍がないという。そのため戸籍上、隆司には父親がおらず、住民登録も母方の姓である「大屋」になっていた。中学までは横山姓で通せたが、いざ高校に上がる段になると手続き上具合が悪い。このため、母が父に、なんとか戸籍を回復してほしいと頼んだところ、父はときどき買っていた軍事雑誌「丸」を引っ張り出してきて、「人間爆弾・桜花」の記事を示し、そこに書かれた「大田正一特務少尉」の名を指して「これがわしなんや」と明かしたという。

母の告白に隆司は驚愕した。気が動転するというより、それは心の奥底にじわじわと響くような静かな衝撃だったという。いままで一緒に暮らしてきた「横山道雄」という父親は実在せず、「大田正一」という別人だった。「横山隆司」として育ってきた自分の名前も架空のものだった。人間爆弾をつくったという父はいったい何者なのか。そしてそんな父と血を分けた自分も何なのか――。

大田は晩年、失踪したことがあった。1994年5月のことである。失踪から2日後、和歌山県の白浜海岸の断崖絶壁から飛び降りようとしているところを保護された。失踪騒ぎのあと、大田を病院で診てもらったところ、末期がんだとわかった。だが戸籍がないため、国民健康保険にも入っておらず、治療費が高額になってしまう。あらためて父の戸籍回復に奔走した隆司は、ここでも驚くべき事実を知る。

父は大正11年(1922年)生まれと称していたが、実際は大正元年(1912年)生まれで、十歳も若くサバを読んでいた。北海道と称していた本籍も山口県だった。さらに驚くことに、父には妻子がいた。戦前に結婚した時子という妻があり、子供もいて、死亡届はその妻から出されていた。大阪で所帯をもって40年以上、父は本名こそ明かしたものの、年齢も出身地も偽り、前の家庭のことも隠し続けていたのだ。

1994年12月7日、大田正一は息を引きとった。82歳だった。遺品を整理すると、戦争に関する雑誌や本も、新聞記事のスクラップブックも、いつの間にか処分されていた。「なぜお父さんは、これほどまでに自らの痕跡を消そうとしたんでしょうか」と問う著者に、隆司は亡くなる3ヵ月前に父がポツリと言った言葉を思い出す。その時、大田はこう言ったという。

「いまさらわしがほんとうのことは言えんのや。国の上のほうで困るやつがおるからな……」

大田正一の戦後の歩みについては、ぜひ本書を読んでほしい。それは日陰に身を潜めるような人生だった。そんな大田とは対照的な人生を送った者たちがいた。旧海軍の指揮官である。彼らは 戦後もエスタブリッシュメントとしてスポットライトを浴びながら生きた。

大田正一が「人間爆弾」のアイデアを具体化させるうえで決定的出来事となったのは、日本海軍最大の拠点だったトラック島が壊滅したことだったという。

1944年2月17日の早朝、トラック島は、米機動部隊の空母9隻から飛び立った艦上機の大編隊による奇襲攻撃を受けた。攻撃は2日間にわたって続き、撃沈された日本側の艦艇は11隻、輸送艦30隻、ほかに11隻の艦船が損傷した。失った飛行機は300機を超え、戦死者は2000名以上にのぼった。対する米軍の戦死者は40名。いかに一方的な攻撃だったかがわかる。
実は奇襲の2日前に、司令部は無線を傍受し、米機動部隊がトラック島をうかがっていることを把握していたという。にもかかわらず、なぜか警戒配備は解除され、零戦の大部分は燃料も機銃弾も積んでいなかった。

その原因は「飲み会」だった。内地に帰る司令長官の歓送会を行っていたのだ。奇襲を受けた朝、指揮官たちは芸者と寝ていたという。攻撃の兆候を把握しながら内輪の都合を優先させるというのは、想像力の欠如というしかない。

当時の記録を読むと、この手の不手際や悪手は枚挙にいとまがない。日本が追いつめられたのも無理はないと思える。トラック島壊滅ののち、マリアナ沖海戦でも日本海軍は惨敗し、自爆攻撃への流れが加速していく。行き当たりばったりで進退きわまった途端、「もう体当たり攻撃をやらなきゃダメだ」と捨て鉢な発想へと飛躍する。そして愚かな精神論が顔を出す。〈魂と科学の一体〉などと桜花をもてはやす当時の新聞の見出しをみると、「特攻兵器の生みの親」という汚名は、決して大田ひとりが背負うものではないと思う。

正体を隠しながら戦後を生きた大田は、はたして幸せだったのだろうか。
義娘の美千代の目に映る大田は、ぶっきらぼうだが思いやりのある父だったという。大雨が降ると、仕事帰りの美千代を駅で待っていて、無言で傘を差し出し、一人で先に帰ってしまう。あんこが好きで、酒も好き。そうめんは「三輪そうめん」や「揖保乃糸」のようなブランドものより、日清食品の安い「ナンバーワンそうめん」のほうが大好きで、いつも「これがおいしいんや」と言って食べていた……。

どうということのないありふれた日常の記憶だが、読みながら、大田は幸せだったのかもしれないと思った。家族がいたからこそ、大田は死を選ぶ手前で踏みとどまり、生をまっとうすることができたのではないか。大田は戦争で家族を捨てた。だが大田を救ったのもまた家族だった。

戦争はその人の人生を破壊してしまう。自分の人生を取り戻すために、大田正一は長い戦後を生きた。ささやかな日常を、家族という安らぎの場所をもういちど取り戻すには、幽霊として生きざるを得なかった。その気の遠くなるような日々に、戦争の残酷さを思わずにはいられない。
二度と大田のような人を生み出さないためにも、ぜひ手に取ってほしい一冊だ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

『決定版-HONZが選んだノンフィクション』発売されました!