『ヴィクトリア朝時代のインターネット』文庫解説

2024年5月11日 印刷向け表示
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作者: トム・スタンデージ,Tom Standage
出版社: 早川書房
発売日: 2024/5/9
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インターネット30周年を祝うイベントが開かれていた1999年頃、ネット関連の会議などで頻繁に話題に上る本があった。それは、その前年に出版された本書『ヴィクトリア朝時代のインターネット(The Victorian Internet)』という不思議なタイトルの本だった。これを読んだ関係者が、「たかだか数十年の歴史しかないとされるインターネットだが、実はそのルーツは19世紀にまで遡ることができるんだ!」と胸を張っていたことを思い出す。

「インターネットの父」と呼ばれ、69年の最初の実験にも加わり、現在はグーグルのチーフ・インターネット・エヴァンジェリストという肩書きを持つヴィントン・サーフ氏もこの本を絶賛し、2008年に日本国際賞を受賞した際のスピーチでも言及している。「ネット業界のカルトな古典」とまで言われ、英国ではテレビ番組も作られたこの本の邦訳が、やっとここに出ることとなった。

もちろん、「ヴィクトリア朝時代のインターネット」と言っても、19世紀にはわれわれの知っているインターネットがあったわけではなく、本書はいわゆる「電信」に関する本だ。だが電信といっても、いまではその姿を知る人はほとんどいないだろう。電信を使って文書を送り届けてくれる電報は誰もが知っており、電子メールが普及する前は手紙より早く連絡をとる手段として一般的だったものの、現在では押し花や刺繍のついた台紙で届けてくれる、主に慶弔に関するメッセージ配信のサービスとしてしか残っていない。

その原理はしごく簡単で、簡単に実験して確かめることができる。電池と電線、電磁石やランプとスイッチをつないで回路を作り、スイッチを入れたり切ったりすれば磁力が発生したり消えたり、ランプが点滅したりする。そのオンとオフのパターンを決めておけば文字を送ることができるというものだ。電線を延ばしていけば、より遠くに送ることができ、いわゆる一般的な電信になる。しかし線を長くすればするほど電気抵抗が高まって、送り先で検出できる電圧が低くなり、オンとオフをより高速で繰り返すと波形がどんどん崩れて見分けにくくなる。19世紀の初頭には、まだ電池が発明されたばかりで、電気というものの性質が明らかになっておらず、多くの先人たちが苦労を重ねながら、より遠くに早く情報を伝えられる実用的なシステムを作っていったのだ。

初期の電信のサービスでは、送りたい要件を書いて窓口まで持っていくと、オペレーターがそれをモールス符号(短い信号のトンと長いツーの組み合わせ)に変換してキーをたたき、その電気信号が途中の電信局で中継されながら目的地まで伝わっていった。実は現在のインターネットも同じ原理で動いている。プロバイダーのメールサーバーに入ったメールの本文は、モールス符号ではなくアスキー符号のかたちで、人手ではなくコンピュータのソフトで変換され、インターネットの通信プロトコルで各所のサーバーを経由して目的地のメールサーバーまで届く。しかし仕組みは同じで、人手で行っていた部分がすべてコンピュータ化されただけと考えられないこともない。

ただ、現在の電報にあたるメールなどでは、窓口にメッセージを持っていくのではなく、個人がパソコンやケータイ、モバイル端末などでキーをたたいて、それをソフトが符号に変換しているし、メッセージの受け取りも個人が端末で行い、利用者同士が直接通信している。電信の全盛期でも、端末を自宅に置いてメッセージをやりとりした人はほとんどおらず、政府や企業、特殊な立場にいる人しか直接使うことはできなかった。結局電信は、間に他人の手を介するわずらわしさもあり、自宅に端末を置いて直接声でやりとりできる電話にその地位を譲らざるを得なくなった。

それでも緊急時の信書のやりとりをする電報サービスや、ビジネス向けに経済情報や気象情報を確実に送るため、また電子的に自動化されたテレタイプを使ったテレックスなど、電信の発展系と考えられるサービスは20世紀には確実に利用が続き、その機能をコンピュータに置き換えたパソコン通信の先駆者となった。日本では現在もファクシミリを用いた電子郵便(レタックス)などとも併用されてはいるものの、ネット時代に取扱量は激減し、米国で独占的に電報サービスを行ってきたウエスタン・ユニオン社は、2006年にサービスを廃止してしまった。もはやネット時代に、電信は過去の栄光しかない懐古趣味的な存在でしかないように思える。

ところが、そこで話は終わっていなかった。実は最近の電子メールの普及のおかげで、電信や電報の持っていた文字通信の力が復活していたのだ。メールはキーをたたく煩わしさがあるものの、声でやりとりするより確実に情報を交換でき、記録しやすくて検索もしやすい。インターネットの前身のARPAネットが始まったとき、ほとんどの通信量を占めていたのは、友人同士が近況を報告しあうメールのようなショート・メッセージの機能だったという。パソコン通信時代を経て、その発展形である電子メールやSMSによって文字通信が復活したのだ。その機能を応用して作られ、誰もが簡単に情報を発信して共有できるツイッター(現X)やフェイスブックなどのソーシャルメディアを、電信文化が一般化して開花した究極の姿だと考える人もいる。

本書では、こうした電信とインターネットのテクノロジーとしての類似性ばかりか、それを使う人々の振る舞いや、それによって引き起こされる社会現象までもが驚くほど似ていることが指摘される。電信のオペレーターが日々の通信をきっかけに交際して結婚に至る、現在の「ネット婚」のような話があったり、電信の内容を盗み見する人がでてきて暗号が開発され、それをまた破ろうとするハッカーのような人たちがでてきたりする。電信によって、現場の情報が担当者より先に本国に伝わり、外交官や戦地の指揮官が混乱する。世界中に即時に情報が伝わることで、世界平和の実現が早まったと誰もが期待する。そう、19世紀にはすでに現在のネット社会を予言するような動きが始まっていたのだ!!

本書の舞台となるヴィクトリア朝時代は、20世紀のテクノロジー社会の先駆けになるような驚くべき時代だった。電信のネットワークが広がったのは、産業革命の結果できた蒸気機関を使った鉄道の路線に沿ってだった。情報ばかりか、それに伴う人や物資の移動も、それ以前の時代とは比べものにならないほど高速化され、人々はスピードに酔いしれた。同じ時代にベルトコンベアやエレベーターができ、石油の機械採掘とガソリンエンジンの発明が自動車に発展し、写真や映画、電話や蓄音機や電球が発明され、それ以前には考えられなかったようなテクノロジーの進化が現実のものとなっていた。

主に本のかたちでしか行われなかった出版は、電信によって日々大量に印刷物を届ける近代の新聞を生み出し、これを使ってプロ向けインターネットとも言うべき通信社を生み出した。リンカーンは電信を積極的に利用して南北戦争に勝利した。そして電信は、自然や社会に関する基本的な考え方も大きく変えた。ダーウィンが進化論を唱え、人類は神によって創造されたのではなく、サルと同じ種類の生きものが自然の摂理で変化しただけだと説き、産業革命で虐げられた労働者を見たカール・マルクスが『資本論』を書いた。まさにこうした激動の時代に、電信による世界レベルの情報の伝達や共有が、すべての革新の背景として機能していたのだ。

新規のテクノロジーによって新しいメディアが生まれたとき、人はその可能性に歓喜するのと同時に、それが社会と起こす軋轢に戸惑う。まさに現在のインターネットもそれと同じ状況にあるのだろう。どれほど便利になるのか? と実用性だけを論ずるのでは、それが持つ本当の意味を理解することは難しい。むしろ、それがなぜ生み出される必要があり、人間や社会がどういう影響を受けたかに目を向けるほうが、実りの多い論議ができるだろう。人はなぜもっと遠くに早く情報を伝えたかったのか? それは本書にも書かれているように、郵便しかない時代に、愛する妻の最期に立ち会えなかったサミュエル・モールスのエピソードに集約されているような気がする。テクノロジーを動かしているのは、人の気持ちだ。そして電信というインターネットの祖先が引き起こした変化の中に、人間本来のメディアに対する感性の本質が見え隠れしていると言える。そこには、歴史のアナロジーという手法を得意とする著者の力量がいかんなく発揮されている。

現在は誰も気にしていない電信の歴史を掘り起こし、生き生きとしたエピソードをふんだんに取り入れて現在のインターネットの意味を探る著者のトム・スタンデージ氏は、かなりの歴史通でテクノロジーにも詳しいベテラン作家のように思えるが、実は本書がデビュー作だ。1969年英国生まれで、オックスフォード大学で学び、現在は『エコノミスト』誌サイトのデジタル編集者で、同誌の発行する季刊『テクノロジー』誌の編集者でもある。最新のネットサービスやモバイル関係の記事を書き、『ガーディアン』『ニューヨーク・タイムズ』『ワイアード』などにも寄稿している。またBBCでコメンテーターとして登場し、各地で講演をいくつもこなし、自身のブログ(tomstandage.com)やSNSでも積極的に発言している。最近は『エコノミスト』に書いたコラムが、日本の雑誌で紹介されていることもあり、氏の動きに注目している業界人も増えているだろう。

そしてスタンデージ氏は本書の後に、(1)『The Neptune File』(2001年、海王星発見のドラマ)、(2)『The Turk』(2003年、チェスを指す機械人形の謎)、(3)『A History of the World in Six Glasses』(2005年、飲み物から探る世界の歴史)、(4)『An Edible History of Humanity』(2010年、食べ物から見た世界の歴史)と4冊の本を立て続けに出版し、現在はソーシャルメディアのアイデアの源泉を歴史に求める本を執筆中だ(追記:『Writing on the Wall: Social Media–The First 2,000 Years』として2013年に刊行された)。

『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーにも選ばれた(3)についてはすでに翻訳『世界を変えた6つの飲み物』(新井崇嗣訳、インターシフト、2007年=『歴史を変えた6つの飲物』楽工社、2017年)があり、その軽快で示唆に富んだ語り口に共感を覚えた読者も多いだろう。(2)についてはすでに本書と同時に、同じくNTT出版から拙訳で出版されている(『謎のチェス指し人形「ターク」』)。

平易で読みやすく、歴史的事実をサスペンス小説のようにストーリー化して盛り上げていく本書の翻訳に困難はほとんどなかった。しかし、この本のメインテーマに関する言葉については、ここで述べておく必要があるだろう。本書では、電信の前身となったシャップの腕木通信から電信に至るまでのすべての試みを「テレグラフ(telegraph)」という言葉で表現している。もともとこの言葉は、シャップの腕木通信が発明されたときに使われたもので、その後に現在の電信にあたるものが出現したときには最初は「電気式テレグラフ」と呼ばれたが、現在の電信を指す場合は単純にテレグラフが用いられている。本書ではそれらの区別が必要な場面では、電気式以前のものを「テレグラフ」と表記し、実用化した電気式のシステムやサービスを「電信」とし、それらの間の実験段階のものは「電気式テレグラフ」や文脈上わかる場合は「テレグラフ」と表記した。またテレグラフが電報サービスを指す場合は、「電報」と訳した。

今回の翻訳を行うにあたっての参考文献としては、専門的な著書としては『歴史のなかのコミュニケーション』(デイヴィッド・クローリー+ポール・ヘイヤー編、林進+大久保公雄訳、新曜社、1995年)、『やさしいメディア技術発達史読本』(山川正光著、日刊工業新聞社、1990年)などを使った。一般向けの著書としては、『腕木通信』(中野明著、朝日新聞社、2003年)、『モールス電信士のアメリカ史』(松田裕之著、日本経済評論社、2011年)、『メディアの近代史』(パトリス・フリッシー著、江下雅之+ 山本淑子訳、水声社、2005年)、『エレクトリックな科学革命』(デイヴィッド・ボダニス著、吉田三知世訳、早川書房、2007年=『電気革命』新潮文庫、2016年)などが役に立った。また一般向けではないものの、現在の国際的な通信分野の標準化機関であるITU(本書に述べられているように、最初は各国の電信を相互に接続するための機関だった)が1965年に100周年を記念して出した『腕木通信から宇宙通信まで』(翻訳版は旧国際電信電話刊で、原題は「From Semaphore to Satellite」)は、図版も豊富で当時の状況を理解するのに非常に役立つ文献だった。

本書はもともと、2011年に拙訳でNTT出版から出されたが、現在は絶版になってネット業界からもそれを惜しむ声が多く寄せられていたことから、今回は早川書房の一ノ瀬翔太氏にお願いしてハヤカワ・ノンフィクション文庫に収めていただいた。市場の煽るデジタル化やAI万能の掛け声に惑わされず、そもそも人はなぜコミュニケーションするのか? という観点から、本書のドラマを楽しんでいただければ幸いだ。

服部 桂

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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