『あるロマ家族の遍歴』旅に生きた人生

2012年10月12日 印刷向け表示
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あるロマ家族の遍歴―生まれながらのさすらい人

作者:ミショ ニコリッチ
出版社:現代書館
発売日:2012-09
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正直にいうと、私は長期間、遠くに行くのがあまり好きではない。理由はわからないが、子供の頃からそうだったし、今もそうだ。

もしかしたら、根っからの農耕民的な性格を引き継いでいるのかもしれない。江戸時代の農民にでも生まれていたら、一生の大半を生まれた村から出ることなく生きたであろう。そんな出不精な私が、たまたま手に取ってしまったのが、私とは正反対の生活を営む放浪者。ロマの男性の自伝だ。

著者であるミショ・ニコリッチの父リュボルミン・ニコリッチは、馬喰を生業にするロワーラ系のロマの子として、この世に生を受けた。インドが起源とされるロマとは思えない白い肌をした男だった。彼は長身でハンサム、しかも聡明で恐れ知らずの強い男へと成長した。そんなある日、彼は道端で手相占いをする美しいロマの少女を見かけ、声をかける。リョボルミンは占いが終わると、占い師の少女ミレヴァをお茶に誘い、その場でいきなり求婚する。

両家の間で婚約の話はうまくまとまったが、リュボルミンの若き情熱は留まることを知らず、結婚前にミレヴァと男女の関係を結んでしまう。当時、女性が未婚のうちに処女を喪失することはロマの家族にとってはこの上なく不名誉なことであった。

家族の名誉を傷つけられたミレヴァの兄達は、リョボルミンを殺そうと謀議する。その事を知った、リョボルミンとミレヴァは家族と離れ逃亡の旅にでる。

家馬車に家財道具を積んでの旅。まさに絵に書いたようなロマの放浪生活の中で、ミレヴァは娘をもうける。数年後には、偶然ある街の市場で、彼女の家族と再会し、和解にいたる。月日は流れ、夫婦の間には8人の子供が生まれていた。そんな中で9人目の子供として生まれたのが著者ミショである。

お産をした女性は、ロマの間では不浄な存在とされ、料理や食器に触ることが許されないという話は面白い。ロマの間では衛生に関する厳格な規則があり、その習慣を守らないガジョ(非ロマ)を不浄の者とする風習があったらしい。ガジョからは差別を受けるロマの間で、ガジョに対する逆差別的な心情も存在していたのかもしれない。

奇しくもミショが生まれた1941年はユーゴスラヴィアのロマにとって苦難の始まりとなる年であった。ドイツ国防軍による、ユーゴスラヴィア進駐とユダヤ人およびロマに対する激しい弾圧。

逃亡生活の中で、リュボルミンも逮捕され銃殺されそうになるのだが、彼の友人でガジョの町長によって銃殺直前で救いだされる。この恐怖の時代を家族の誰も犠牲になることなく、強制収容所にも送られなかったニコリッチ家は当時としては、かなり稀有な例であるようだ。

父リョボルミンが奇跡のような生還を果たした日は、1943年の10月25日。二日後の27日はセルビア正教会のペットコヴィツァ、神の母・聖母マリア様の祭日であった。いらい、ニコリッチ家では、今もこの日を祝う習慣が続いているそうだ。

戦争を無事に生き延びたニコリッチ家は、三人の息子に教育を施したいという、リュボルミンの考えにより定住生活を始める。年の離れた姉たちや、その夫と子供達も共に暮らす大家族の定住生活だ。初めは工場などで非正規の労働者として働いた父であったが、ロマへの差別は根強く、ロマと知られてしまえば、失職することがほとんどだった。リュボルミンは、より安定し多くの収入を得るため、香具師という仕事を始める。祭りに使う遊具などを馬車に積み、国中の祭りや縁日を移動しながらの生活。学校に通う子供達は家に残り、父母と姉達のいく人かがキャラバンに加わる。

夏休みの間は、ミショも父に同行し香具師の仕事を手伝うのだが、ある村では子供達が馬車の周りに駆けつけ、「ジプシー、ジプシー」とロマを貶す歌を歌い、囃し立てる。ミショにとって実に悔しい経験だ。しかし、別の街の子供達は積極的ミショに話しかけ、遊具の設置を手伝い、共にフットボールを楽しむなど、よき思いでもつくっている。この出来事を見る限りでは、世間のロマに対する態度も必ずしも一様ではないようだ。

ミショの、姉夫婦の中にはスリで生計を立てる者がいたり、ミショ自身も、冬の寒さをしのぐために、燃料となる薪を近所のパン屋で盗んだりしている。貧困と犯罪が常に身近にあるロマに対する偏見は、今も昔も変わらない。犯罪のすべてを社会のせいにする考えに私は与しないが、やはり差別と偏見という現実を無視してロマの現状を考えることは出来ないように思う。

様々な家族間のトラブルはありつつも、平穏な時間が流れているニコリッチ家に大きな衝撃が走る。父リョボルミンがラザールという男に殺されたのだ。この死をきっかけにニコリッチ家の結束は緩んでいく。厳格で筋を通す父の死により、姉の夫の中には家族に迷惑かける者や、問題を起こす者が出てくる。この大家族はリョボルミンの統率力が、核になって結束していたのだろう。ミショにとっては尊敬できる父であった。

父の死により子供時代に別れを告げたミショは、塗装工として独り立ちする。三番目の姉夫婦が移住していたオーストラリアへ旅をし、そこで知り合ったロマの娘ルージャと恋に落ち、愛を交わす。やがてルージャは妊娠するが非情にも、ミショのビザはきれてしまう。ユーゴスラヴィアへ帰国後、出来るだけ早期の再会を画策するミショの元に徴兵通知が届く。事情を説明し、徴兵猶予を願い出るがあえなく却下。そのためミショは密出国を決意し、行動に移す。

数々の危険を冒しながらイタリア、フランス、そしてドイツへと密入国の旅を続けるミショ。ドイツでは難民申請を受理され、ロマのコミュニティで生活の基盤をと整えていく。

ミショがドイツで共に暮らしたロマは、カルデラッシュ系のロマで、彼の属するワローラではない。同じロマでも風習の違いがあり、ミショはその事を興味深く記述している。カルデラッシュ系のロマは伝統的に金属加工などを生業とするロマで、多数あるロマグループの中では最大の規模を誇るグループだ。彼らの間では妻を買い取る、婚金という習慣がある。

カルデラッシュがもっとも大切にする三種の神器は妻と金と身分証明書。よい妻を誇るカルデラッシュでは、他の男に妻を寝取られないか常に心配し、そのために、とても嫉妬深い人が多い。ミショも彼らの仲間になる為に幾つかの嘘と、細心の注意を必要とした。

カルデラッシュ系ロマの元で懸命に働き、ロマコミュニティで信頼を得て、頭角を現したミショは、その後も多くの行商の旅を経て、愛するルージャとオーストリアで定住生活に入る。そしてロマの特徴である放浪者としての暮らしに完全に終止符を打つ。

よく人生は旅に例えられるがミショの人生は、本当に多くの歳月が旅であった。大胆で恐れを知らない性格は父譲りだったのだろう。密出国を決意したときに発した「人間どうしてもさけられないこと、それは死のみです」という言葉は胸を打つ。

彼は自らの人生を何者にも委ねず、常に自分で勝ち取ることの出来る、強い意志と行動力のある人物のように思える。農耕民的な性格の私には、彼のような旅を主題にした生き方は、向いていないだろう。だが常に自らの意思で進むべき道を決め、決して他者に決断を委ねない姿勢は、見習うことが出来るはずだ。

現在もロマへの差別は東ヨーロッパを中心に根強く残り、ここ最近はむしろ先鋭化する傾向があるようだ。ミショと妻ルージャは音楽家として、ロマの伝統音楽をガジョの人々に紹介する活動を行っており、そのため何度も脅迫を受けたようだ。子供達のことを考え悩む時期もあったが、彼は活動を続ける決意をする。

最後の数行は、素朴な言葉ながら本当に心に迫るものがある。だが、あえて引用はしない。あまりにも素朴すぎて、その部分だけ引用しても、きっとその素晴らしさが伝わらないと思うからだ。本書を手に取りミショと共に長い旅を終えた者のみが、この言葉を理解し、味わうことが出来る。そのような言葉で最後を飾った作品だ。

第三帝国の興亡〈1〉アドルフ・ヒトラーの台頭

作者:ウィリアム・L. シャイラー
出版社:東京創元社
発売日:2008-05
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本書にも少し登場するナチス。ヒトラーは何を夢見ていたのか?同じ時代を生きた歴史学者が書いたナチスの歴史。

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

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日本のなかで差別される人々「非人」の歴史に迫る。

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