驚くべきことに、ドイツでは今日もなお、刃渡り約90センチの切れ味鋭い真剣を用いた「決闘」が一部の学生の間でごく普通に行われている。
そんな書き出しで本書は始まるのだが、驚くのはこちらの方だ。隣のページに目を移すと、いきなり著者が身長2メートル近いドイツ人の大男と決闘しているシーンの記述に出くわす。それも著者が留学していた当時の話だから、わずか30年くらい前の出来事なのだ。
ドイツ語で「メンズーア」と呼ばれるこの「決闘」は、刃渡り88センチ、柄の部分が15センチもある鋭利な真剣を用いて、顔と顔を正面から斬りつけるものである。決闘する両者の間には剣の長さの分、つまり約1メートルほどの距離しかなく、直立して向かい合わなければならない。しかも敵の攻撃をかわすために、上体と頭を前後左右に動かしたりすることすら許されていないのだ。
後ずざりしたり、顔をのけぞらしたり動かしたりした者は、「臆病で卑怯な態度(=ムッケン)」と見なされ即失格になる。身体の中で動かすことを許されているのは、剣を動かしている片腕だけ。よって相手の剣をかわせるのも、己が持つ剣のみ。使っているのが真剣なら、やっている方も真剣なのである。
18世紀頃までの決闘では防具を付ける習慣が無かったため、命を落とす者も後を絶たなかったという。だが現在では、頸動脈を守るため首に金属入の襟巻きを付け、致命傷を与えるため「突き」は禁止。そして上半身には長めの胴着をつけ、顔には目を保護するために、レンズの部分が針金格子になっている鋼鉄製の奇妙なメガネをつけるなどの策が施されている。
さらには決闘専門医が常時リングサイドに張り付いているなど、この決闘で命を落とす可能性は少なくなったとはいえ、刀傷を縫うときには麻酔などを一切使わないという妙なしきたりも残されている。
危険際まりないこの種の決闘が、今日でもドイツやオーストリアをはじめ、スイス、ベルギー、バルト三国の一部で日常的に行われているのだ。一体なぜこのような行為が、今日まで連綿と受け継がれてきたのか?これを明らかにするために、著者は自身の経験も踏まえ、学生結社と呼ばれる組織の歴史を紐解いていく。
大学における学生団体と言えば、アメリカ・エール大学の学生秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」などを思い浮かべる方も多いだろう。だが学生結社としての歴史はドイツの方が古く、スカル・アンド・ボーンズもドイツにおける学生結社のアメリカ支部として設立されたのが発端なのだ。
その背景には、ドイツが小国乱立の時代を経てきたという経緯がある。宗教改革以降、ドイツ語圏において各地に大学が成立していくが、まだ数も少なく異郷へ学びにいく者も多かった。そのためそれぞれの大学では、出身地域に応じて同郷人会的な互助団体が形成されていったのだという。
だが洋の東西を問わず、大学において先輩の言うことは絶対。そんな学生寮文化の中で新人いじめとしての儀式や、お互いの結社を代表しあう学生同士の決闘といった慣習が確立され、現在に至るのである。
そう聞くと、なるほど、これはゲルマン式の体育会のようなものかとも思えるのだが、もう少し先を読んでいくとやっぱり違う。それは、一つにはメンズーアが殺傷能力のある「真剣」を用いるということ、もう一つは勝ち負けがないということである。
勝者も敗者もいない中で、決闘者は己の内的不安を克服し、自制心を失うことなく自己を制御することを学んでいく。あくまでも自分自身の内面との戦いであり、これはヨーロッパの伝統的な騎士道精神に基づいた勇気と精神の強さを証明するための一つの通過儀礼・儀式なのだ。そして挑戦者は刀傷のリスクと引き換えに学生結社のメンバーに認められ、「生涯に渡る会員同士の結合」を手にする。
ドイツ語圏では、社会の一線で活躍する人物でも、職業を問わず、頬や顎のあたりに見事な刀傷がある男性も多いのだという。1930年代までは、この刀傷は、それを顔に負った人間がドイツ語圏で大学教育を受けたというエリートの誇り高き証しであり、追い詰められた状況においても尻込みすることのない、勇敢な人間であることの象徴なのだ。
本書において紹介されている決闘経験者だけでも、文豪・ゲーテ、『資本論』のマルクス、宰相・ビスマルク、ニーチェ、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世、詩人・ハイネ、ダイムラー、車両技師・ポルシェ、物理学者・プランク、医師・シーボルト、アルツハイマー、シューマン、シューベルト、ワーグナーなど、そうそうたるメンバーである。
中世から近代にかけてのヨーロッパにおける歴史などを追いかけていくと、信じ難いような野蛮な行為が為されている記述によく出くわす。そのような野蛮さをひた隠しにするのではなく、むしろエリート教育の一環として活用しているというのは、まさに驚くべきことである。
そこには、騎士道精神に裏打ちされた、ある種の高貴な美学と、相手や自分を死の淵へと追いやる野生的な残酷さが共存しているのだ。しかもこの伝統的な学生間の決闘=メンズーアは、処罰の対象にはならない合法的なものとして、法的にも認められているそうだ。
日本にも気品溢れるエリートというのは沢山いるだろうし、アンダーグラウンドな世界においては真剣の斬り合いに長けた人もいることだろう。だが、その双方を兼ね備える「高貴なる野蛮さ」を持った人には、なかなかお目にかかれない。
本書はそれがどのようなプロセスから育まれるかという点において、示唆に富む内容であった。恐ろしくも奥深い、ゲルマン式エリート養成術の実態。とかく体育会的な気質が敬遠され、過保護にゼロリスクなものばかりを求めるという昨今の風潮に、意外な角度から一石を投じたものだなと思う。