『慟哭の海峡』大正生まれの男たち

2014年10月28日 印刷向け表示
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慟哭の海峡

作者:門田 隆将
出版社:KADOKAWA/角川書店
発売日:2014-10-09
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台湾南端の鵝鑾鼻(がらんび)岬からフィリピン領バタン(バシー)諸島との間にある海峡をバシー海峡という。黒潮が流れるこの海峡は、かつて輸送船の墓場と呼ばれていた。太平洋戦争後半には、この海峡にアメリカ軍の潜水艦が多数配備されており、南方の戦線に送られる日本軍の輸送船団に忍び寄り、その牙をむいた。この海峡で10万人以上の日本人が犠牲になったという。このことをいったいどれだけの日本人が知っているのだろうか。今もこの海峡の底には、祖国に帰る事がかなわなかった多くの日本人の無念の思いが、その御霊と共に眠っている。

本書はこのバシー海峡を彷徨いながら、九死に一生を得た元独立歩兵第十三連隊、第二大隊の通信兵、中嶋秀次と、この海峡で戦死した柳瀬千尋、そしてその兄で『アンパンマン』の作者、やなせたかしを中心に、その生と死、そして戦後を綴ったノンフィクションだ。

1944(昭和19)年8月19日午前4時50分。フィリピン・ルソン島のマニラを目指して、バシー海峡を航行していた「ヒ七一船団」の玉津丸は米軍の魚雷をくらう。通信員の部屋は通信業務が行いやすいように、甲板に近い場所にとられていた。このことが幸いした。暗闇に包まれ、かつ傾く船内を移動するのは至難の業だ。船倉深くの部屋をあてがわれていれば、甲板にたどりつく前に、流れ込んできた海水により溺死していたであろう。

甲板にでた途端に中嶋は大波にさらわれ、海中に引きずりこまれる。玉津丸が魚雷攻撃を受けたとき、海は時化ていたのだ。沈みゆく船が起こす流れに引き込まれ、沈んでいく中嶋は苦しみの中で死を覚悟した。しかし、盥船のようなものが偶然にも手に当たり、それを掴む。当時の艦船には船が撃沈されたときに備え、多くの浮遊物を積んでいたという。

海面を漂った彼は遠くに浮かぶ筏の群れと、その上で軍刀を背負い部下に指示をだす中嶋の上官(といっても当時23歳だった中嶋より若い)小宮山中尉を見つける。体力がつきかけていた中嶋だったが、〝中尉殿が生きている〟と思うと不思議なほど力が湧いたという。

太いロープで繋がれた筏の群れに多くの将兵が這いあがっていた。しかし、三角波が襲ってくるたびに確実にひとり、またひとりと波間に消えていく。同じ部隊の後輩も姿を消し、軍刀を背負いテキパキと指揮を執っていた小宮山中尉もいつの間にか消えていた。最盛期で50人を超えていた人数も、大きなうねりが襲ってくるたびに確実に少なくなっていく。

よく20日には救助船が駆けつけるも、中嶋たちの筏にまで救助の番はまわってこなかった。救助船も潜水艦に攻撃される危険を冒しての救助活動である。無理は出来ないのだ。しかし、嵐の夜を恐怖と不安にさいなまれながら生き残り、あと少しで救助されると思っていた矢先に置き去りにされた彼らの思いはどんなものであったか。

待ってよと 血を吐くこえで 呼ばいつつ 水掻く兵ら 涙ぬぐえず
もう見えぬ 船よばいつつ 筏こぐ 狂いしごとく 竹筏こぐ

大学で文学を学んでいた中嶋はこの時のことを回想し、このような歌を詠んでいる。希望は潰えた。ここから多くの兵たちの絶望的な漂流生活が始まる。容赦なく照りつける8月の太陽は、遮るもののない筏の上の男たちの皮膚を焼き、火傷を負わせる。暑さは即、乾きへとつながり、我慢できず彼らは海水を飲み始める。兵たちは茶色い尿をするようになる。

彼らは次々と狂い死ぬ。ある下士官は喋る気力も失せ、目だけをぎょろぎょろさせていたのだが、突然、意味不明な言葉を発し続けた後にこと切れた。またある兵は、中嶋が制しする手を振りほどき、何かを呟きながら海に入り消えていった。幻想の中で「湯をくれたご婦人方」を追いかけ夜の海に飛び込み消えていく者。中島を妻と思い込み、その手を握りながら清水を求めて死んだ男。中嶋自身も何度も戦友が夢枕に立ち、彼を呼ぶ夢を見る。そして戦友について行こうとするたびに、海へと転げ落ち我に返るという経験をする。狂い死ぬ者を見送る人の気持ちとはどんなものなのか。想像すらできない。

最後に生き残った朝鮮人軍属と中嶋は、死んだ兵の肉を食べるかで意見が分かれる。食べようという朝鮮人軍属の言葉を「日本人」だからと断るや中嶋。その直後、意識を失った中嶋が目覚めたとき、死体は消えていた。食べたかと聞く中嶋に、朝鮮人軍属は、肝を取りだし食べる前に洗おうとしたら死体が波にさらわれた、という。その言葉を耳にした中嶋は「なんだ!残っているものがあれば、俺にもよこせよ」とつぶやいた。自分でも思いもかけない言葉だった。戦争が生み出した極限状態は本人が知りたくもない、生物が持つ一種の生臭さを我々に突きつけるのだろう。

この朝鮮人軍属も息絶えた。自身も立つことすらできなくなっていた中嶋だが必至で彼を介抱した。この朝鮮人は間違いなく生死を共にした無二の戦友なのだ。彼はなんども「中嶋さん、ありがとう」とつぶやきながら死んでいく。中嶋は動かなくなった彼の横で四つん這いになり、なぜか軍人勅諭を叫んでいた。涙を流しながら。その行為が唯一、彼を現世に押しとどめる行為であるかのように。中嶋は漂流12日目に救助される。

「ヒ七一船団」は一昼夜の内に数隻の輸送船を失い、一万人以上の犠牲者をだしていた。この経験が彼のその後の人生を決める。彼は旅行会社を経営する傍ら、バシー海峡の戦死者遺族の慰霊旅行を企画し、私財を投じて台湾最南端の猫鼻頭岬に慰霊のための寺を建てる。戦後の彼は異常なまでの執念で慰霊の旅路を行くことになる。

彼の魂の一部は、あの時に留まったままなのだろう。いや、彼に限らず、戦争というものを生き残った者の心は、常に戦場という地獄に囚われる。死を迎えるまで、そこから抜け出すことができないのではないか。それは本書のもうひとりの主人公、柳瀬千尋が将校として勤務していた駆逐艦「呉竹」の生存者の話からも伺える。

ところで、太平洋戦争とは大正生まれの男たちの戦争でもある。本書によると大正生まれの男子の総数1348万人のうち200万人以上が戦死したという。大正生まれの男の7人にひとりが戦死したのだ。ひとつの世代がこれだけの規模の数で失われたのである。この戦争が日本社会を変容させたことは間違いないだろう。

今まで語られることのなかった大正の男たちの悲劇的な死にざまと、生き残った者たちの声を歴史という堆積物に埋もれさせてはいけないだろう。多くの人が、本書を開き彼らの慟哭に耳を傾けて欲しい、そう思わずにはいられない。
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