『チベットの焼身抗議』燃えさかる叫び、祈り

2015年10月23日 印刷向け表示
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チベットの焼身抗議 (太陽を取り戻すために)

作者:中原 一博
出版社:集広舎
発売日:2015-10-05
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チベットが自由を取り戻すため、世界平和のために、私たちは焼身する。自由を奪われたチベット人たちの苦しみは、私たちの焼身の苦しみよりも余程大きい。

中国政府の圧政に対するチベット人の焼身抗議は2009年3月に始まり、2011年3月以降連続しながら今なお続いている。2015年8月1日の時点で亡命チベット人を含め147人が焼身を行い、内123人が死亡している。冒頭の言葉は、2012年4月に2人同時に焼身して亡くなった25歳と24歳の青年が残した遺書の一節だ。

焼身は自殺の中でも最も激しい苦痛を伴うものと言われている。体液は沸騰し、眼球は膨張し破裂する。息をすれば気管と肺は焼け、激しい痛みと共に呼吸困難に陥る。そうした状態のまま、焼身者のほぼ全員が「ダライ・ラマ法王に長寿を! チベットに自由を!」、「ダライ・ラマ法王のチベット帰還を!」と最期の言葉を叫ぶという。

海外メディアへの取材規制や現地メディアが行う情報統制によって、チベットの現状の多くは報じられないままになっている。そうした状況の中、チベット本土で起きた政治的事件の情報をブログ上で発信しているのが著者の中原一博氏だ。

チベット語を解する中原氏は、亡命政府が拠点を置く北インドのダラムサラに向けて内地のチベット人が命がけで伝えてきた情報を、整理して日本語に訳した記事を公開している。本書はそのブログを編集し直したものだ。「チベット人たちへの親しみ、愛情、敬意が、私をダラムサラから離れがたくしてきたのだと思う」と語る著者は、本職である建築の仕事をしながらダラムサラに住み続けて30年になる。

チベット問題の時代背景については、焼身と特に密接な関係があると思われる部分に焦点が絞られる。1950年に始まったチベット侵攻、ダライ・ラマ法王の亡命、文化大革命といった出来事については軽く触れられる程度だ。重きが置かれるのは、1990年代半ばに「経済発展と思想統制」という統治の方向性が確定されて以降現在に至るまで続く、中国政府の強硬政策に関する記述である。

経済面では西部大開発により中国本土から人と物が加速度的に流入し、地下資源をはじめとするチベット資源の略奪が進んだ。地元で聖山として崇められる鉱山が次々と開発され、生活水の汚染や草原の荒廃など公害も起きた。2012年には金鉱山の入り口付近で2件の焼身抗議が発生している。観光客の急増などにより富がもたらされる地域もあったが、恩恵を受けるのは漢族であり、漢族とチベット人の間の格差は広がった。

遊牧民たちも、フェンスでの囲い込みや強制移住など「遊牧民定住政策」の被害を被っている。これまで100万人以上が強制的に移住させられ、中国語の読み書きができない彼らは中国人植民者に仕事を奪われているという。焼身者のうち半数以上は、遊牧民や半農半牧民、あるいはその家庭の出身者である。

思想面でも不自由は多い。僧侶や尼僧には「中国共産党を愛し、祖国を愛し、社会主義を愛する」ことが強要され、「私はダライ一味に反対する。私は家にダライの写真を掲げない。私は共産党を愛する。」との宣言が強いられている。ダライ・ラマ批判を拒んだ僧侶は、僧院を追放され、僧籍を剥奪されることもあるという。

チベット語を教える学校を強制的に閉鎖するなど、言語の弾圧も依然として続いている。亡命チベット社会の学校でチベット人としての教育を受けるため、子供が危険を冒してインドへ亡命するケースも1980年代の終わり頃から急増しているという。チベット語喪失への危機感は強く、遺書の中で「チベット語擁護」を訴える焼身者も多い。

こうした状況の中、2008年3月に首都ラサでチベット人による大蜂起事件が勃発した。当局の無差別発砲により数百人のチベット人が殺され、逮捕者は数千人に及ぶ。抵抗の波はチベット全土へ広がり、数ヶ月のうちに約150カ所で抗議デモが発生した。デモが行われた地域で後に焼身が頻発していることから、焼身抗議は2008年の暴動の延長線上にあると考えられている。

2009年に焼身抗議が始まって以降、著者は全ての焼身者の詳細なレポートをブログに載せてきた。本書では焼身抗議者143人について、1人ずつスペースを割いて焼身の顛末が綴られていく。残された遺書、関連するニュース、周囲へのインタビューなどから個々の焼身の状況と背景に迫ることで、チベット問題の空白部分が見えてくる。分量にして全体の3分の2を占めるこの最終章では、政治問題の大きな枠組みからはこぼれ落ちてきたチベット人たちの実情を知ることができるだろう。

焼身者には若者が多く、10代と20代で7割以上を占めていること。焼身に対する決意は固く、熟慮の末に行われたものが多いこと。現状を世界に訴えるよりも、同胞を鼓舞してチベット人のアイデンティティーを守ろうとする思いが遺書から読み取れること。読み進めるほどに、知らないことの多さを何より痛感する。

焼身に対する中国当局の対応も想像を超えていた。焼身が政治的なものだと判明すると、地元の警察や役人は責任を負わされるという。よって「焼身の原因を〝夫婦仲〟だと言えば100万元を与える」と言って家族に買収を持ちかけるといったケースが出てくる。それをきっぱり断ると、家族は拘束され、拷問を加えられた。

この方法が通じなくなると、今度は焼身を「ダライ一味による陰謀だ」とみなして責任を外に押し付けるようになった。ダライ一味と連絡を取り焼身を教唆、煽動したという罪を着せられ、死刑を含め重い刑を受けるチベット人もいる。このような対応はかえってチベット人たちの抗議行動に火をつけ、次の焼身を生み出してしまう。

騒動が多い地域には保安予算が多く割かれるため、地区を管轄する警察や軍隊は私腹を肥やすためにチベット人を積極的に刺激しているのではないかと著者はみている。鎮圧に成功すれば出世にも好影響なので、上層部を含め圧政が止まらないような構造が存在しているのかもしれない。

焼身は近年減少傾向にあるものの、残念ながら中国政府の強硬姿勢が近い将来変わる兆しはないそうだ。一方で、焼身だけに限れば、当局が今より少しでも態度を軟化させ、譲歩の姿勢を示すだけでも事態は改善する可能性があると著者は言う。

チベット人は生来寛容で多くを望まない。この性格を利用し締め上げた縄を少しだけ緩めるというずるいやり方であっても、チベット人は息をつくことができるのだ。根本的解決には程遠いが、今はこの程度であってもいいからどうかチベット人に安寧の時を与えて欲しいと中国に頼みたい。

彼らと比べて圧倒的に「自由」な社会に生きる我々にとって、焼身という行為を理解することは難しい。だが無関心こそが支配する側にとって最も好都合なことである以上、いつまでも知らないままでは済ませられないだろう。

「他心測り難し」というように、彼らの動機を知ることは、本当は不可能に近い。また、これを推し量るための情報も限られている。しかし、たとえ限られた情報の中からであっても、彼ら1人1人の人生について思いを寄せてほしい。

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著者の中原氏がナビゲーターとなり、チベットの現状とそこで暮らす人々の心に迫っていくドキュメンタリー、『ルンタ』が一部劇場にて上映中である。焼身抗議について知るだけでなく、チベット人の日常や高地の崇高な自然にも触れられるおすすめの作品だ。チベットに興味を持たれた方は、ぜひ1度足を運ばれてはいかがだろうか。

 

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