『脳が壊れた』ルポライター41歳、脳梗塞になりました!

2016年7月6日 印刷向け表示
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脳が壊れた (新潮新書)

作者:鈴木 大介
出版社:新潮社
発売日:2016-06-16
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 健康診断を怠っている。フリーランスになってからというもの、よっぽど具合が悪くなければ医者に行くということもない。しかし、自分の健康を過信しているわけでもない。物忘れがひどければ「若年性の認知症?」と怯えるし、動悸が激しければ「心筋梗塞?」と脈を計る。手足が痺れると「脳梗塞」を疑い、しばらく様子を見たりする。

一般的には60歳以上に多いという脳梗塞。しかし鈴木大介は41歳で発病した。

ノンフィクション本好きなら、この鈴木大介という名前に見覚えがあるかもしれない。貧困家庭の子どもや虐待などから家出した少年少女、そのセックスワークや集団詐欺など一般社会から早い年齢で零れ落ちた人々を丁寧に取材しているルポライターである。過去、私も何冊か読んで書評をしたこともある気骨あるルポライターだ。

社会が注目している分野であり、仕事の依頼も多く多忙を極めていた2015年の初夏、地元の消防団の消火訓練中、左手指にしびれを覚えた。(ルポライターが消防団?と疑問を覚えた方もいるだろうが、これも病気の遠因になっている)

病気はこんな風に始まった。音声入力で原稿を書いていた鈴木がある朝、パソコンの前で仕事を始めると自分の発音を認識してくれなくなったのだ。「彼女」といっているつもりが「あおお」、「宝物」が「あああおお」。呂律が回らす激しい眩暈と視界の歪みが起こっている。これは脳が壊れたに違いない。

予感はあったのだ。多くの依頼を受け、それに真摯に応えて書いてきた。収入も増え書きたいことを書けるようになり、また忙しさに拍車をかけ、疲労は限界に達していたのだ。過労死になるかも、と妻に万が一のときの連絡先を渡していた予感が的中してしまったのだ。

脳神経外科で右側側頭葉のアテローム血栓脳梗塞と診断され、ただちに血栓を溶かす薬が投与された。手当が早かったためと、血栓で機能しなくなった脳の範囲がそれほど広くなかったため、治療後すぐに歩けたが、それでも後遺症は残った。「半側空間無視」という左方向がまったく見られなくなったのだ。真っ直ぐ動いているつもりでも右旋回し、左側に何があるかわからないため、左腕や左足がぶつかりまくる。人と話をしていても左側をどうしても見ることができず、右上方を凝視してしまうのだ。

他にも左手指の麻痺が残った。指を見ながらゆっくり「動け」と念ずるとギシギシと動き始めるが、握り込むとそのまま、今度は開くことができずジャンケンができない。まずのリハビリ目標は谷啓の「がちょーん」ができることに設定された。

リハビリは反復訓練である。ひとつ出来るようになったら徹底的に繰り返す。子どものころサッカーのリフティングを練習したように、ただただ繰り返す。伴走してくれるのは優秀なリハビリの先生たちだ。ひとりひとりの症状を観察して吟味し、ピンポイントで苦しい練習を課す。それが少しずつ成果をあげ、患者は達成感を得ていく。

よっぽど頑張っているんだって、分かるよ。やればやっただけ回復するし、やらなきゃ一つも進まないんだからね。見てれば分かるよ

少々キツい感じで苦手な看護師からのエールだ。彼は声を殺して泣いたという。

器質的な後遺症は、根性論的なものでも前進する。しかし脳の損傷が、感情に影響し、それはそう簡単にリハビリできるものではなかったようだ。その克服は、かなり苦しみを伴うものだった。

高次脳機障害によって感情のコントロールができずに泣き続けたり、注意力が極端に欠損したり、本や漫画を読むことができなくなったり、という症状をすこしずつ改善すべくリハビリを続けるうちに、突然、鈴木大介は気づいたのだ。

自分の脳の欠損によって出ている症状や態度は、いままで自分が取材してきた幼児期に愛情を注がれなかったり、虐待によって感情が無くなったりした子供たちの「発達不全」と似ているのだ。コミュニケーションや他者への共感力は教育と訓練と経験によって培われるものだ。自分の場合は脳梗塞という病気であるべき能力が奪われたのだが、彼の取材してきた子供たちは発達不全のなかで、その能力が獲得できなかったのではないか。

リハビリ病院の療法士は有能だ。だがその能力は高齢者と自分のように病気やけがによって脳を損傷したものにしか適用されない。貧困層や発達障害の子どもに彼らの力が生かされたら、問題の多くは解決されるかもしれない…。

多くの取材対象を持っている鈴木大介だからこそ気づいたことだ。今までは同情や社会批判などの外の立場から取材してきたことが、脳梗塞をやったことで、当事者と近い気持ちを持つことができ、解決策に近づけるかもしれない、という希望を持つまでに至った。

とはいえ高次脳機能障害はいまでも残り、日々の生活で怖い思いをたくさんしている。NHKの集金員に恫喝されたり、感情が激昂しすぎて友人に号泣しながら泣きついたり、ということもあるようだ。

後半は「私はなぜ脳梗塞になったか」を分析していくのだが、なるほど、これは病気になるわな、と誰もが思うことばかり。参考になる人もならない人もいるだろうが、その分析をしなければ、再発率が極めて高い脳梗塞という病気に相対できないだろう。

普通の人ならば絶望的になる「脳が壊れる」という状態を、客観的にルポし一冊にまとめたのは、やはり今までの取材経験がものを言っている。この病気によって鈴木大介が描く貧困の少年少女の姿と社会保障や医療への取り組みは新たな方向性を得た。彼が今後、どのような取り組みを行っていくのか、大変楽しみである。

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最貧困シングルマザー (朝日文庫)

作者:鈴木大介
出版社:朝日新聞出版
発売日:2015-01-07
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 栗下直也のレビューはこちら

最貧困女子 (幻冬舎新書)

作者:鈴木 大介
出版社:幻冬舎
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ギャングース・ファイル 家のない少年たち (講談社文庫)

作者:鈴木 大介
出版社:講談社
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 上記2冊は鈴木大介の出世作。『家のない少年たち』「小説すばる」2012年1月号の書評はこちら

ギャングース(1) (モーニング KC)

作者:肥谷 圭介
出版社:講談社
発売日:2013-08-23
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 このマンガの原作を担当している。現在12巻まで発売中。マンガHONZでもレビュー済み

 

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
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『決定版-HONZが選んだノンフィクション』発売されました!