前著の『テクニウム』では、テクノロジーを自己組織化する情報世界の基本原理と捉えて、壮大かつ深遠な宇宙観にまで論を進めた。テクノロジーを単なる人間の人工的な方便と考えるのではなく、生命世界の上位概念として宇宙の普遍的な要素とまで言い切った彼の論に、戸惑いを覚えた読者もいたかもしれない。
しかし今回書かれた本書は、われわれの身近なデジタル・テクノロジーとの付き合い方を個別のサービスなどを例に説いた、もっと親しみやすい内容だ。テクニウムという広く深い概念にまで行き着いた彼は、そこから再度現実に目を向け、日々進化するテクノロジーについてその意味を問い、どう付き合うべきかを具体的に考えた。
本書の原題はThe Inevitableで、不可避という意味だ。何が不可避なのか? それはデジタル化したテクノロジーが持つ本質的な力の起こす変化だ。それは水が川上から川下に流れるように、太陽が東から出て西に沈むように、この世界に普遍的な理でもある。彼はそれを12の力もしくは傾向に分けて、それぞれの力を順に説明していく。各章の表題は動詞の現在進行形で表記されており、(第1章で主張するように)動詞化する世界がまさにプロセスとして動いている姿を捉えようとしている。これらはデジタル世界の持つ根源的な性格を捉え、法則として読み解く重要なキーワードだ。
その12章を簡単にたどるなら、ネット化したデジタル世界は名詞(結果)ではなく動詞(プロセス)として生成し(第1章 BECOMING)、世界中が利用して人工知能(AI)を強化することでそれが電気のようなサービス価値を生じ(第2章 COGNIFYING)、自由にコピーを繰り返し流れ(第3章 FLOWING)、本などに固定されることなく流動化して画面で読まれるようになり(第4章 SCREENING)、すべての製品がサービス化してリアルタイムにアクセスされ(第5章 ACCESSING)、シェアされることで所有という概念が時代遅れになり(第6章 SHARING)、コンテンツが増え過ぎてフィルターしないと見つからなくなり(第7章 FILTERING)、サービス化した従来の産業やコンテンツが自由にリミックスして新しい形となり(第8章 REMIXING)、VRのような機能によって高いプレゼンスとインタラクションを実現して効果的に扱えるようになり(第9章 INTERACTING)、そうしたすべてを追跡する機能がサービスを向上させライフログ化を促し(第10 章 TRACKING)、問題を解決する以上に新たな良い疑問を生み出し(第11章 QUESTIONING)、そしてついにはすべてが統合され彼がホロス(holos)と呼ぶ次のデジタル環境(未来の〈インターネット〉)へと進化していく(第12章 BEGINNING)という展開だ。
邦題は『〈インターネット〉の次に来るもの』とした。デジタル・テクノロジーの持つ力の不可避な方向性とは、まさに現在われわれが(仮に)〈インターネット〉と呼んでいるものの未来を示すものだからだ。しかし、われわれは現在、デジタル世界の水にどっぷりと浸かった魚のように、このデジタル環境が何であるかについて深く考えられないでいる。著者は未来予測をするというより、むしろ過去30年の経験を反省して距離を置くことで、〈インターネット〉という名前に象徴されるデジタル革命の本質を読み解こうとしているのだ。
ワイアードの初代編集長でありながら、当初ネットは超多チャンネルのテレビになると信じたり、商売には使えないし、ウィキペディアなどのアマチュアが書く百科事典は成立しないと考えたりした失敗談を織り込み、われわれがネット出現時にいかにその本質を見誤っていたかを鋭く説く。確かに30年前には海のモノとも山のモノとも分からない〈インターネット〉が、メディアを大きく変え、政治経済や社会全体のありとあらゆる基盤を変えてしまうことなど誰も想像できていなかった。そう考えるなら今後30年経ったとき、ドッグイヤーで進化した〈インターネット〉の姿をどう考えればいいのか? われわれが過去30年を振り返って、現在との差異を理解することで、未来の生じるかもしれない新たな変化(差異)について思い巡らすことができるのではないか。
前作の『テクニウム』で、デジタル世界を最も深く理解するビジョナリーとしての評価を確立した著者が、その後の新たなアイデアを自身のブログやニューヨーク・タイムズなどの大手のメディアに発表し、それを基に続編を書くことを公言していたので、われわれはずっと注目してきた。そして昨年に草稿ができた段階で、英語版に先行して中国語版が出され、発売前に15万部の予約が入るほどの人気を博した。
また今年6月の発売に先行して、テキサス州オースチンで毎年3月に開催されているいま最もホットな音楽、映画やデジタルメディアの祭典SXSWでは、ケヴィン・ケリーが本書について語るセッションが設けられ、主催者の一人で有名なSF作家ブルース・スターリングのセッション参加者を大幅に上回る観客が詰めかけ会場から溢れた。本書は発売と同時に、ニューヨーク・タイムズやウォールストリート・ジャーナルのベストセラーの上位にランクインし、夏休み読書特集にも一押しの本として紹介されている。
本書に書かれている展望は、今後の問題点もカバーしているものの、未来についてかなり楽観的な見方をしている。これからのネットが開く世界は前向きな話ばかりではなく、ウィキリークスや炎上事件などに象徴される旧体制や社会との確執や、プライバシー、セキュリティーなどの新たな問題の火種も含んでいる。欧米では、ネット社会の未来について、世界中の利用者のデータや仕事を収奪する新たな植民地主義だと懸念する声も聞かれる。デジタルの可能性に期待を寄せるアメリカの読者の中にも、いくぶん戸惑う意見があることも確かだ。しかしケヴィン・ケリーは長年の経験から、悪いことより良いことが僅かに上回っており、こうした世界を理解することでより良く未来に対処できると信じている。
物事を遠くから観察するだけでその善悪を断罪したり抗ったりするのではなく、まず虚心坦懐にその姿を受け入れて理解することこそ、問題に立ち向かう最良の生き方であることを彼は理解している。東洋を深く愛する彼だからこそ持てる視点であり、それはまるで禅の高僧の言葉のようだ。
有名なパーソナル・コンピューターの命名者でもあるアラン・ケイが言ったように、「未来は予測するものではなく発明するもの」であるなら、本書が述べるように「最高にカッコいいものはまだ発明されていない。今日こそが本当に、広く開かれたフロンティアなのだ。……人間の歴史の中で、これほど始めるのに最高のときはない」と考えることで、われわれは誰もが同じスタート地点に立って、この混迷した時代にきちんと前を向いて未来を変えていくことができるのではないだろうかと思う。
2016年6月22日 服部 桂