人生観が、そして人生が変わる 『死すべき定め
死にゆく人に何ができるか』
人間にとってただ一つ確実なことは、いずれ死ぬということだけだ。しかし、いつ死ぬのか、どのように死ぬのかはわからない。年老いて不自由になった時、不治の病にかかった時、あなたはどのような人生を望むつもりだろう。医学が発達しているからなんとかしてもらえると思っている人がほとんどではないか。しかし、その考えは、この本の冒頭にある文章を読んだだけで打ち砕かれる。
わずかな間だだけでも高齢者や終末期の患者と一緒に過ごせば、援助すべき相手に対して医学がどれだけ失敗を犯しているかがわかるだろう
人生の備えとしてこの本を読んでおくべきだ。あなたの人生観が変わる。そして、いつか人生そのものが変わる日がくるはずだ。
つい数十年前まで、老人は敬われ、大事にされ、家族の世話で看取られていくのが一般的であった。しかし、高齢化や核家族化により、そのような最期は激減している。そして、老化により自立できなくなった高齢者は、アメリカでも日本でも、施設で面倒を見てもらうしかない状況になってきている。そういった施設の問題点は、医学的な発想に基づき、安全と健康を重視するという観点から運営されていることにある。施設の都合で運営されるために、個人のプライバシーと自律は失われてしまう。そして、生きる意味さえ失われていく。悲しいことだ。誰もが人生は幸福に終えたいはずなのに。
かつてそうであったように、最期まで家族の世話になりながら自由気ままにできればいい。しかし、現実的には難しい。では、施設での生活を改善できるか、ということになる。難しそうな気がするが、少し視点を変えるだけで可能であったという実例が示されている。そのひとつがアシステッド・リビング施設、日本語では『日常生活動作支援介護付き高齢者集合住宅』である。
そこで「冒してもよいリスクと避けたいリスクを決める」のは、施設ではなく、家で普通に暮らしているのと同じように、入所者自身である。当然のように、発足当時、高齢者の安全確保を第一に考えてきた人たちから非難をあびた。しかし、調査の結果、アシステッド・リビング施設では、入所者の生活満足度が高いだけでなく、健康も身体能力も認知能力もが高く保たれ、さらに経費も低くてすむということが明らかになった。
最大限の自立をめざして、より積極的な介入を試みた施設もある。これも簡単といえば簡単なことだ。施設で犬、猫、インコなどペットを飼うようにしただけである。すると、入所者は生気を取り戻し、しゃべれないと思われていた人がしゃべりだした。使われていた薬剤費が38パーセント、死亡は15%減少した。死亡率まで?という気がするが、ペットの導入を思いついた医師は「生きる理由を求める人間の根源的なニード」がその理由だと考えている。
これらふたつのエピソードからだけでも、よく生きるためには、生きる理由が、そして、自分の意思に基づいた自律的な生き方が必要であることがよくわかる。それは老化だけではなく、不治の病に冒された場合も基本的には同じである。しかし、老化がある意味で自然経過であるのに対し、がんは突発事故のようなものだ。なので、治療が困難ながんが死すべき定めとわかった時、どう対応するかは、より難しい問題になる。
不治の病の患者に対して、全力を尽くして治療しながら、これは患者が望めばいつでもすぐに降りられる列車だと説明している
これが多くの医師の態度だ。一見、極めて妥当である。しかし、医学がいくら進歩しても、確率として治療の結果を語りうるが、個別例がどうなるかを予言することはできない。それに、進歩した医学知識を一般の人たちが十分に理解するのは難しい。だから、このやり方は「疑念と恐怖と絶望の間で引き裂かれている」ほとんどの患者と家族に対して望みすぎなのである。
といったところで、最終的な決断は、患者と家族がおこなわざるをえない。考えてみると当たり前だが、どのあたりで列車を降りるか、は、列車に乗る前に決めておくべきことだろう。健康な間から考えておいて損はないはずだ。もちろん、列車に乗ってから気が変わることがあってもかまわない。その列車の降りどころを考える上で重要な示唆を与える研究が紹介されている。
ステージⅣの末期肺がん患者を、通常の治療のみ、と、それに加えて緩和ケア専門スタッフによる訪問をおこなう、という二つのグループに無作為に分けた臨床研究がそれだ。後者では「患者の状態が悪化したときにスタッフは患者と何を目標とし、何を優先するか」を専門のスタッフと話し合う。その結果「緩和ケアに割り当てられた患者は化学療法を中止するのが早く、ホスピスに入るのもより早く、臨終の際の苦痛がより少なかった」ことがわかった。この結果をどう解釈すべきだろうか。
さらに、驚くべきことに、緩和ケアをうけた患者は、受けなかった患者に比べて、なんと25%も長生きしたのである。まるで画期的な新薬レベルだ。それも安価で手に入れることのできる。
人は一度きりしか死ねない。死の経験から学ぶことはありえない
しかし、自ら経験していなくともそのことを良く知っている人に、いかに死んでいったらいいだろうかという困難な問題を相談するのは非常に意味あることなのだ。
こう書いてくると、難しい医学の本なのかと思われるかもしれないが、まったく違う。内容は決して軽くはないが、実際にあった事例の紹介がメインで、医師による訳文もよく、読みやすい本である。著者のアトゥール・ガワンデは、ベストセラー『医師は最善を尽くしているか』で知られ、TIME誌に『世界でもっとも影響力のある100人』に選ばれたこともあるハーバード大学の外科教授だ。
ガワンデの親族たちのストーリーも紹介されている。父方の祖父は、百歳を超えて主治医に止められても、馬に乗って土地を見回ることをやめない、古き良き時代のインド人であった。たくさんの家族に見守られながら暮らし、バスからの転落事故で亡くなった。妻の祖母は、それとは対照的に、やむなくナーシングホームに入所し、最後の数ヶ月はただ死を待ってみまかった。そして、最も詳しく書かれているのは、インドから米国に渡り、泌尿器科医として名をなした父が、いかにして病と闘ったかについてである。
今を犠牲にして、未来の時間を稼ぐのではなく、今日を最善にすることを目指して生きることがもたらす結果を私たちは目の当たりにした
ガワンデの父は、非常に希な、すなわち治療の判断の難しい、脊髄腫瘍に冒される。専門家の意見を聞きつつも自分の医学知識を最大限に活かし、余命を冷静に見つめて自らの生き方を最優先した決断をおこない、死に至るまでの日々を充実して生きた。その経過を間近で見続けたガワンデの言葉がこれである。この本は、父の遺灰をガンジス川に流すところで終わる。
自分でも驚くほど深い感動を覚え、人生観が揺さぶられた。米国では75万部を売り上げたという『Being Mortal』、1人でも多くの人に読んでもらいたいと思っている。みすず書房の本だけあって3千円とやや高めである。しかし、いかに死ぬか、だけでなく、いかに生きるかを教えてくれると思えば、安いものだ。多くの人にこの本を読んでもらえれば、日本の医療が変わる可能性すらあるのではないかと本気で考えている。
翻訳の原井宏明医師による解説はこちら
ガワンデの大出世作。画期的な治療法を開発する経費があれば、現状の医療をきちんとおこなったほうがはるかに効率がいい、など、目からウロコのエピソードがいっぱい。
これもハーバード大学の教授、ジェローム・グループマンらの本。患者が決められないのは当たり前のことなのである。内藤順のレビューはこちら。