哲学の本を一冊ずつ読んでも、それが大きな哲学・思想の枠組みの中でどの部分に当たるのかが分からなければ、文字を目で追っているだけになってしまうし、哲学についての解説書を読んでも大抵の場合、21世紀に入ってからの最新の動向は書いていないし、おまけに議論と実社会での出来事との関連性が希薄なので、意識が朦朧としてきてしまう。そのような読者に福音をもたらしたのが本書である。
哲学者の名前を、例えば、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル、ドゥルーズ、フーコー、デリダ、チャーチランド、シンガー、クレーマー、スティグレール、クラーク、チャーマーズ、メイヤスー、ガブリエル・・・と並べた時に、一体どこまで認識できるだろうか。
多分、チャーチランド辺りから怪しくなってくるのではないかと思うが、生まれた年を見ると以下の通りになっている。第二次世界大戦後に生まれた哲学者からポストモダンの次の潮流が生まれ、そこから一気に話が分かりにくくなってくる。
ルネ・デカルト(仏:1596年-1650年)
イマヌエル・カント(独:1724年-1804年)
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(独:1770年-1831年)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独:1844年-1900年)
マルティン・ハイデッガー(独:1889年-1976年)
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(仏:1905年-1980年)
ジル・ドゥルーズ(仏:1925年-1995年)
ミシェル・フーコー(仏:1926年-1984年)
ジャック・デリダ(仏:1930年-2004年)
ポール・チャーチランド(加:1942年-)
ピーター・シンガー(豪:1946年-)
ジュビレ・クレーマー(独:1951年-)
ベルナール・スティグレール(仏:1952年-)
アンディ・クラーク(?:1957年-)
デイビッド・ジョン・チャーマーズ (豪:1966年-)
カンタン・メイヤスー(仏:1967年-)
マルクス・ガブリエル(独:1980年-)
本書は先ず、意識を分析する17世紀の「認識論的転回」、言語を分析する20世紀の「言語論的転回」、それに続く20世紀後半の「ポストモダン」について説明した後、21世紀におけるポストモダン以後の新たな3つの潮流、即ち、「自然主義的転回」、「メディア・技術論的転回」、「実在論的転回」を俯瞰する。
ポストモダンの特徴は、簡単に言えば、「大きな物語」、つまり道徳的な善悪や法的な正義に関しても万人に共通の普遍的な真理や規範はもはや存在せず、小さな集団の多種多様な意見があるだけだというものである。
これに対して、20世紀末頃から新たな3つの潮流が生まれた。先ず、「自然主義的転回」(ポール・チャーチランド、アンディ・クラーク他)は、20世紀の「言語の哲学」から「心の哲学」への転換を図った。次に、「メディア・技術論的転回」(ベルナール・スティグレール、ジュビレ・クレーマー他)は、コミュニケーションが行なわれる際の土台となる、物質的・技術的な媒体(メディア)から考えた。最後に、「実在論的転回」(カンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエル他)は、存在は思考によって構築されるという構築主義(constructivism)に対して、思考から独立した存在を考えている。
そして、現在、最も注目されているのが、「実在論的転回」であり、その中心にいるのがカンタン・メイヤスーである。彼は、現在パリ第1大学の准教授だが、1967年生まれとまだ若く、注目され始めた頃は30代だった。メイヤスーが2006年に出版し、その後「思弁的実在論」(speculative realism)の運動を形成するきっかけになったのが『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』で、この本によってメイヤスーは一躍、現代思想界の中心に立った。
メイヤスーは、カント以来の近代哲学は、「認識論的転回」(超越論的観念論)も「言語論的転回」も「ポストモダン」も、全て実在に対する人間の優位を説く相関主義(correlationism)に他ならないと考える。つまり、ポストモダンにおいて頂点に達する、言語が現実を構成するという「言語論的転回」の考え方は、既にカントの「コペルニクス的転回*」から始まっており、更にこれは近代哲学の創始者デカルトにまで遡るものだと考える。
*カントが自らの哲学を評した言葉。人間の認識は外部にある対象を受け入れるものだというのが、従来の哲学の常識であったのに対して、カントは、人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成すると説き、ここから人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。
メイヤスーはこうした相関主義を乗り越え、人間の思考から独立した数学や科学によって理解できる「存在」を問題にし、こうした立場を「思弁的唯物論」(speculative materialism )と呼んでいる。そして、人間の思考から独立した「存在」を考えるために、「人間から分離可能な世界」として科学的に考察可能な人類出現以前の「祖先以前性」や、人類消滅以後の「可能な出来事」をも想定する。
同時に、ドイツでも「実在論的転回」が提唱されており、その中心が現代思想の新たな天才と評されるマルクス・ガブリエルである。1980年生まれでまだ30代の中頃だが、現在はボン大学の教授(就任時は29歳)である。2013年に出版され、哲学書としては異例のベストセラーとなった『なぜ世界は存在しないのか』の中で、彼の唱える「新実在論」(new realism)では、物理的な対象だけでなく、それに関する思想、心、感情、信念、更には一角獣のような空想さえも存在するとしている。
2015年に出版された『私(自我)は脳ではない─21世紀のための精神哲学』のタイトルが示唆しているように、ガブリエルは精神を脳に還元してしまうような、存在するのは物理的な物やその過程だけで、それ以外は独自の意味を持たないという考えを否定する。ガブリエルが構想する「新実在論」は、そうした科学的な宇宙だけでなく、心(精神)の固有の働きをも肯定するものなのである。
この辺りの最先端の議論については難解でよく理解できない所もあるが、今、哲学の最前線で何が起きているのかを知るだけでも価値がある。
本書では、このように哲学の潮流について俯瞰した後に、今の哲学者が取り組んでいる、現代社会が抱える以下の6つの現実的課題について、著者なりの見解を展開している。
① 哲学は現在、私たちに何を解明しているか?
② IT革命は、私たちに何をもたらすか?
③ バイオテクノロジーは、私たちをどこに導くか?
④ 資本主義制度に、私たちはどう向き合えばいいか?
⑤ 宗教は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?
⑥ 私たちを取り巻く環境は、どうなっているか?
個人的に資本主義研究を続けていて、『資本主義の教養学』という公開講座も開催している身としては、哲学という観点から実社会の問題に取り組むことは極めて重要だと思っている。物事の本質をさておいて、勝ち負けや好き嫌いだけで物事を判断する現在の世界的な風潮は極めて危険であり、日本で文系学部不要論が叫ばれている中、逆に今ほど哲学が求められている時代はないのだと思う。
こうした中、『「文系学部廃止」の衝撃』や『大学とは何か』を著した東大の吉見俊哉教授が、人文社会科学の存在意義はどこにあるのかを論じた以下のような記事がある。
19世紀にヨーロッパで産業革命が起こり、近代産業技術社会が発展する中で、土木工学、機械工学、物理学、化学、電気工学といった自然科学の知が主流になっていくと、「人文社会科学の知はどのような価値を持つのか?」を、人文社会科学者が真剣に考え始めることになった。
この点について、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のマックス・ウェーバーは、社会科学にとって最も重要な概念は「価値」であり、こうした観点から、合理性には「価値合理性」と「目的合理性」の2つがあると考えた。「価値合理性」とは、勤勉に働くこと自体が神への奉仕であり、お金を儲けるために働くのではないというピューリタン的な合理性である。
他方、贅沢を戒めることでお金が貯まり、それを再投資することで資本主義経済がさらに拡大していくという仕組みができあがると、当初の「価値合理性」は見失われ、目的に対する手段を追求し続ける「目的合理性」が社会を覆っていくことになったというのである。
このように、自然科学的な合理性に対し、目的は自明ではないことを自覚し、その自明性の呪縛から解き放たれるには、根源的な「価値とは何か?」を問う文系的な知が必要だということは、ウェーバー以来繰り返し論じられてきた。
(文系学部廃止 瑣末な議論は終わりにしよう『「文系学部廃止」の衝撃』吉見俊哉東京大学大学院授インタビュー WEDGE INFINITY 2016年5月8日)
個人的には、吉見教授の指摘する通り、21世紀の人文社会科学の存在意義は、正にこの「価値合理性」を問うところにあると思っている。
そうした意味で、21世紀の哲学というのも、純粋科学的・抽象的な議論を超えて、現実社会の問題に対してどう向き合って行くのかを論じることが極めて重要であり、本書はそうした意味で非常に野心的な「古くて新しい」本だと思う。
Amazonでの売上もかなり良いようであり、やっと哲学と現実社会とが接点を取り戻し始めたようで、大変喜ばしい限りである。