本書はWelcome to the Microbiome(Yale University Press, 2015)の全訳である。原書カバーの袖に記された紹介文によれば、アメリカ自然史博物館で2015年11月から2016年8月まで開催されていた、マイクロバイオームをテーマとした展示会に合わせて制作されたものらしい。展示会はその後、アメリカ国内のみならず国外へもツアーをおこなう予定とのことなので、いずれ日本で開催されることもあるかもしれない。
著者ふたりはいずれもアメリカ自然史博物館の学芸員で、ロブ・デサールは比較ゲノム研究での昆虫学が専門、スーザン・L・パーキンズは微生物の系統分類学とゲノム研究が専門だ。
ところで、マイクロバイオームという言葉になじみのない方も多いだろう。だが腸内細菌とか腸内フローラなら耳にしたことがあるのではないか? 健康食品や医療関係の情報で近ごろ注目されるようになっているが、実はこれはマイクロバイオームというものの一部にすぎない。本書の冒頭や用語集でも説明されているとおり、マイクロバイオームとは、「私たちの体の内部や表面のほか、家庭や学校などの生活の場のそれぞれに存在する微生物の集まり」であり、そうした微生物のもつ遺伝子の総体を指す場合もある。この点で、人体に限らずなんらかの環境に棲む微生物群を指す一般概念として本書にも登場する、微生物相(マイクロバイオータ)とも異なる。微生物相を微生物「叢」とする表記も見かけるが、これは細菌を植物に含めていた古い分類のなごりで、「フローラ」(flora の訳語が叢でもある)もそうだ。
だから腸だけでなく、皮膚や口のなか、(従来無菌状態と言われてきた)肺や血液などにも無数に微生物が棲んでおり、また私たちが暮らす環境にも、たとえばトイレのドアノブやパソコンのキーボード、地下鉄の駅や車内にも、それぞれ特徴的な微生物の集まりが存在する。しかも両者(私たちとともにいる微生物と、環境にいる微生物)が相互に影響し合っているのだ。その影響は実に複雑で多面的なので、個々の微生物を一概に善玉・悪玉と区別することはできない。ある病気になるのを防いでくれるが、別の病気をもたらすことがあったりする。たとえば、胃がんや潰瘍のリスクを高めるとされ、最近では除菌をおこなう人もいるピロリ菌は、一方で胃食道逆流症や喘息、食道腺がんのリスクを低減している。さらに腸内細菌については、私たちの身体的な健康状態に影響しているばかりか、実はうつや自閉症スペクトラム障害など、精神にも作用している可能性まである。
本書では、微生物について生命史上の系統進化から明らかにしたうえで、マイクロバイオームの概念や分類、同定手段を示し、先ほど記したような人体との関係の興味深い事例を具体的にわかりやすく説明している。これ一冊でマイクロバイオームのことがひととおりつかめる解説本として、理科系の学生ばかりでなく、科学や医療に関心のある一般の人にも気軽に読めるはずだ。最終的に著者の訴えは、エピローグで映画のワンシーンを利用して実に効果的にまとめられている。病原体への対処はいたちごっこであり、むしろ共存する手も考えていかなければならない。そのためには生態系を総合的に見るアプローチが必要になるということだ。
ところで最近でも、マイクロバイオーム関連で新たな成果が明らかになっている。たとえば今年7月に科学誌『ネイチャー』に掲載された論文では、ヒトの外鼻孔開口部によく見られる黄色ブドウ球菌が、同じ鼻腔内ニッチに棲む共生細菌の産生する環状ペプチド抗生物質によって定着を阻害されることが示されている。これはブドウ球菌感染対策に役立ちうる成果だ。またほかのニュースとして、ハンドソープなどに含まれている殺菌剤トリクロサンが人体のマイクロバイオームを乱しているという研究結果もある。
一方、今年公表された製薬会社セレス・セラピューティクス、メイヨー・クリニック、マサチューセッツ総合病院の共同研究では、糞便ごと腸内細菌を難治性感染症患者の腸に移植すると患者の健康状態が改善されるものの、同じ腸内細菌を(リステリアやサルモネラなどの病原菌は排除し)カプセルに収めて服用させ、腸に到達させても効果が見られなかったという。なぜ効果が現れないのかは謎だが、マイクロバイオームの研究は、ゲノムの高速解読が可能になってようやく現実的におこなえるようになったわけで、まだ始まったばかりなのだ。今年5月にはアメリカ政府が人体および生態系全体に生息する微生物を調査する国家マイクロバイオーム・イニシアチブを立ち上げると宣言し、ビル・ゲイツの財団など民間部門と合わせて約5億ドルの出資をする予定となっているので、こうした研究の今後の進展に期待したい。
またマイクロバイオームについて、ほかにもっと知りたい向きには、次のような文献を薦めておこう。