著者は京舞井上流のお家元、五世 井上八千代さんだ。一昨年、歌舞伎俳優の十五代目 片岡仁左衛門さんらとともに、58歳の若さで人間国宝に認定された。
井上流とは上方舞の一流派なのだが、京都五花街の筆頭、祇園甲部の「御留流」である。祇園甲部では他流派の舞踊は許されず、また祇園甲部より外では井上流の教授は行われない。女性のみで男子禁制である。
花柳流が全国2万名を超える門弟を誇るのに対し、井上流はわずか100名弱の芸舞妓と、座敷で彼女らの舞を愛でる男たちを観客とする小体な流派だということもできる。
享保年間から今にいたるまで300年間、祇園町は上方のお大尽、幕末の志士、戦後の財界人などにとって、もっとも格式の高い社交場であり続けた。それゆえに井上流の舞は、国内のいかなる流派や花街とも距離をおいた凛とした佇まいを持つようになったのかもしれない。
本書は自身の生い立ちや、舞のなんたるかを後世に伝えるべく、お家元みずからの言葉で書き綴ったお宝だ。いまどき珍しい函入りの本で、美しく装丁された上製本だから、粋人であれば是非にも書棚にいれておきたい一冊だ。
踊りが散文的なのに対して、舞は詩的であり、かつ私的
膝を曲げて御居処を下ろす(略)そしてうしろの足の踵を上げる
伝統芸能を楽しむうえで、道標となるような言葉を発見するのも楽しみだ。舞を鑑賞するときには「間」を楽しむがごとく、「行間」を味わうことこそ本書の醍醐味かもしれない。
能、狂言、文楽などは僅かではあるものの公的補助を得ているのにくらべ、花街の伝統芸能はあくまでも客商売として、いまにいたるまで続いている。
それゆえに、お座敷で散財する男たちだけでなく、本書の読者も花街の担い手である。300年続いた文化を我々の時代で絶やしてはならないとつくづく思うのだ。
※週刊新潮から転載