Imagine there’s no cars. 『対岸のヴェネツィア』

2017年11月9日 印刷向け表示
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対岸のヴェネツィア

作者:内田 洋子
出版社:集英社
発売日:2017-11-02
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振り返るのはまだ早いが、今年は『LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略』『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』という本が、とにかく良く売れた。100歳まで生きるという前提で人生設計を組み直す必要があることや、少子高齢化を前提とした働き方に変えなければならないことは、良くわかった。

その他にも変化はいくつもあるが、ガソリン車から電気自動車への切り替えトレンドが大きく進展した。そればかりか、車がほとんど必要とされなくなる未来もあるのではないか、という見方も出てきた。若い人たちはあまり車に乗らなくなり、DMMが共同馬主事業を始め、社会的成功の象徴はふたたび車から馬に戻ろうとしている。というのは競馬好きの幻想か。

枕が脱線しすぎた。次の一文のインパクトを最大限に高める枕のつもりだった。

「水都ヴェネツィアには、車がない」無論、それは言い過ぎだが、基本的に移動は徒歩と船だという。そう訊いただけで、一体、そこはどんな場所なのだろうと妄想がうごめく。水路が多く、そこにかかる橋も歩行者専用のものが多いため、自転車すら見かけないらしい。先ほどの話ではないが、寧ろそれは近未来なのかもしれない。

本書は、2011年に『ジーノの家』で講談社エッセイ賞、日本エッセイスト・クラブを受賞した凄腕の書き手、内田洋子の最新作である。『ジーノの家』は、居住者目線でイタリアに暮らす人々を描き、観光ツアーでは見ることができない「知られざるイタリア」を日本の読者に伝えた。今作では、ミラノから居を移して数年。ヴェネツィアに暮らす人々の人生の断片をあぶり出している。

著者がミラノの人々にヴェネツィアへの転居を伝えると、こんな反応がかえってきたという。

たいていの人は一瞬押し黙った。ミラノからは近いけれど、遠い町。住めることならぜひ、と誰もが夢見る一方、実際に引っ越す人はたしかに稀かもしれない。うらやましいわ、でもなぜ引っ越したの、家はどのあたり、住み心地はどう、酷い湿気でしょう、冠水は大丈夫なの・・・・・・。 ~本書「エデンの園」より

日本人の憧れの観光名所であるヴェネツィアは、ミラノの人にとってはそんな町なのだ。そこに織りなされているのは、どんな人生模様なのか。厳しい掟に縛られたゴンドラ乗りの世界に挑む人、裕福なマダムに仕えるスペイン人の元船員、一千年分の公文書の電子化に挑む研究者たち…世界中の人々を魅了し続ける、ヴェネツィアをめぐる十二章。読み手の興味をはるかに超え、感動すら与える至極の逸品である。

『ジーノの家』もそうだったが、著者の筆に大きな力を与えているのは、純粋な興味で対象に入り込んでいく行動力だと私は感じている。「ジーノ」では、ミラノの暗黒地帯に単身で乗り込むところに凄みを感じたし、「北斎の生まれ変わり」という老画家へのアプローチには鬼気迫るものを感じた。そして今作では、群れから離れたゴンドラ(月型の手漕ぎボート)乗りに声をかけ、夕食を一緒にしたシーンが印象に残った。

白い人は軽々と岸にあがり足早に路地へと入っていった。同じ道を数メートル後から歩いていた私は、広場に抜け出たところで走って追い付き、一杯どうですか、と思い切って声を掛けてみた。後ろ姿を見るうちに、どうしても確かめたくなったからだった。
<なんです?>
というふうに、白い人がゆっくりと振り返った。・・・・・・やはり。 ~本書「ゴンドラ」より

「……やはり」の続きを、ここで書いてしまうのは、少し気が引ける。著者が、偶然に出会い、興味をひかれるままにアプローチをして得た「他に代えがたいもの」がそこにあると感じるからだ。実は、この本すべてがこの「他に代えがたいもの」で満たされている。船乗りに声をかけたパワーと、ヴェネツィアに住むことに決めた行動力の源泉は同じであり、それが内田洋子の本という宝箱を作っているのではないだろうか。

私が刊行当時に『ジーノの家』に手を伸ばしたのは、一度きりのミラノ体験が強烈だったからだ。昼間に銀行で市場調査をして、夜間に現地の書店を回ったのだが、ホテルまでの帰路で道に迷った。そこは、どこまでも暗く感じた。その体験があったから、私は内田洋子に出会えた。この文章を読まないのは、もったいない。対象に強い個人的な興味があるから観察力があり、表現力も抜群なのだ。重厚で瑞々しい。

冒頭であげた2冊のようなメッセージ性の強い本は、ベストセラーになる。しかし、それを読んだだけではなかなか変わらない。そんなとき、事実に根差し、表現力に富んだノンフィクションの読書の積み重ねが力になる。内田洋子も、そういった本を書く著者の一人だ。そして、良書は勇気をくれる。思い切ってジュデッカにきて、物件を案内された時の窓からの眺めが素晴らしい。

「どうです」
案内人が次々に雨戸を開け放つと、窓ごとに対岸のヴェネツィアが現れた。残光を受けて、薄いサーモンピンク色に輝いている。眼下のジュデッカ運河は紺色に沈み、対岸の光景をいっそう際立たせている。窓枠を額縁にしたヴェネツィアが、一枚ずつ剥がれて室内に静かに滑り込んでくる。
口を突いて出るのは、吐息ばかり。息を吸い込むと、落日の情景と一体になれるような気がして陶然とする。 ~本書「所詮、ジュデッカ」より

口幅ったい言い方だが、神様はご褒美を用意してくれている。この部屋からの眺めの素晴らしさは、本書のなかで言葉をかえて度々表現されている。Imagine there’s no cars.そして、移動手段は基本的に船という異次元世界のなかで、ファンダメンタルズが違う人々に興味を抱きそこから何かを吸収し、時にご褒美を得ながら、自分も異分子として生きる。

そんな著者の主体性のある生き方に私は憧れる。大学を出て就職し定年まで勤め上げるという、一時の幻想に過ぎない生き様には一切の憧れを抱かない若い人たちも、内田洋子には憧れるのではないか。自分の世代くらいまでは逃げ切れるだろうとタカをくくり、本当の変化を許さない大人たちに頼るよりも、内田洋子を読みご褒美をいっぱいもらって、自ら切り拓いていきたいものである。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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