1948年秋、犬養道子さんはアメリカ・ボストンへ向けて羽田を飛び立った。当時、若い女性が一留学生として単身アメリカに渡るというのは、決してありふれたことではなかっただろう。そもそも女性の大学進学率がわずか2.3~2.4%、ましてや海外の大学に行くなど限られた人にしか叶わないことである。そんな時代に、犬養さんは旅立った。「お嬢さん育ち」の自覚はある。が、すべてのお嬢さんが行動を起こすわけでは無い。犬養さんは行動する「お嬢さん」だったのである。
アメリカ留学をへて、ヨーロッパへ渡り、1957年に帰国するまでの出来事を描いたのが本書である。なにしろのっけから、まるで「お嬢さん」らしくないというか、じつに冒険心と好奇心に溢れるエピソードが繰り出されるのだから、当時の読者もさぞかし惹きつけられただろう。
初めの行き先はボストンだが、犬養さんの本当の目的はヨーロッパだった。「ギリシャ・ローマの古典の遺産や中世美術としての建築と絵画、それに現代ヨーロッパ思想の流れに触れる」「各国から集まった若い女性たちが共同生活をしながら学問的精神的職業的なトレーニングを受け、社会へ散ってキリスト者としての自らを浄めるという、”グレイル”と呼ばれる理想主義的運動に参加する」という大いなる目的を抱いていたのである。
すでに戦時中から、私は自分が井の中の蛙のように実力も何もないくせに、足が大地についてもいないくせに、とかく自らをよしとする傾向のあるのに気づいておそろしかった。そして、自分と、自分の生活の革新ということが何をおいても第一に大切だと、若さの情熱からいちずに思いこんだ
自分と自分の生活の革新! まずこの言葉の若々しさ、新鮮な響きに打たれる。忘れていた何かが、胸の奥で震えだす。そう、この本は一人の女性の「革新」のドラマが綴られているのだ。
両親に頼れば経済的にも環境的にもあれこれ整えてくれて、もっと気楽に行けたのだろうけれど、「娘らしい思いつめた気持ち」から、犬養さんは人の世話にならずに実行することを考える。アメリカまでの旅費は友人たちのつてで様々な人からの援助を得る。現地に着くと早速アルバイトを探すが、肉体労働は安くて割に合わない。ではと一計を案じ、「戦争後のアメリカ人は、きっと日本の現状を日本人の口から聞きたいに違いない」と、時局に乗じたアイデアを思いつき、すぐさまあちこちに掛け合ってたちまち「人気講師」となる。順風満帆かと思う矢先になんと結核にかかってしまうが、サナトリウムでは、「今度は頭ではなく手を使おう」とばかりに、古くなったパラシュートの紐を払い下げてもらい、それで丈夫なベルトを編んで売ることをおもいつく。生まれてこのかたそんな手仕事などしたことがないのに、さっさとかぎ針を調達し、ちゃっちゃと練習してしまう。手に入れたピカピカの上質なナイロンで作るベルトは大人気、ロザリオ作りにも手を広げ、やがて同じ療養者のなかから協力者を探し出して仕事を仕込んで職工に仕立て上げ、サナトリウムにいながらにして大儲け!ところがそこへ警官が踏み込んできてあわや逮捕の危機に!というのも奨学資金で留学しているのに商売することは立派に法令違反だったのである。さあどうする!
こんな調子で始まる長い旅のたくさんのエピソードは、ときに痛快、ときに感動的、ときにユーモアにあふれて、もうページをめくる手が止まらない。
エピソードの面白さだけでなく、文体の美しさと豊かな表現にも魅惑される。たとえばオランダはこうだ。
アムステルダムが汲んでも汲みつくせない味をもって、住む人々の心をとらえるのは、一つにはこの町独自の石だたみのせいであり、二つには陰鬱な空のたたずまいと町を三重四重にとりまく灰色の運河の水とにおどろく程しっくり合った、さび朱の煉瓦づくりの古い家並のせいである。
アムステルダムには雨が多い。降りつづく霧雨に、家々も石の道もしっとりとぬれて、町一帯はくすんだ灰紅色になる。自転車数台ならべば、もう通行人も歩けなくなるほどせまいセントルム(中心部)付近の、十五世紀頃からそのままの通りなどは、中ヒールの靴でも歩きにくいようなでこぼこした道である。しかし、煉瓦を組み合わせてつくられた石だたみは、歩きにくくても、あぶなくても、靴底に当る感じはやわらかくしめって弾力的である。歩くたびにカチカチというカン高い音の代りに、じーんとひびくねばった音がする
しっとりと肌に纏う空気、ヒールを通しても伝わってくる石だたみの感触。読んでいるだけで五感が刺激されるような文章だ。こんな風に、ボストンやシカゴ、オランダ・ドイツ・イタリア・フランスなど、見知らぬ土地の空気の香りさえ感じさせてくれる。
『お嬢さん放浪記』の刊行は1958年である。敗戦の悲劇から立ち直った日本は、この頃すでに高度経済成長期に入っている。人々は自信を取り戻し、向上心や好奇心が大いに羽ばたき始めた時代だろう。若い女性がひとり異国の地で、様々な出会いの中で経験を積んでたくましく生きていく姿は、経済的な成長とともに国際社会における信頼を取り戻そうとしていた当時の日本社会の姿とも重なっていたのかもしれない。本書の中の犬養道子さんが自立・自律を旨とし、自由を謳歌し、同時に他者のそれも尊重しながら、国境も人種も階級も超えて触れ合っていく姿には、読むものの心を動かす力強さがある。いやまさに、人の心を動かす力で、犬養さんは旅をする。
この9年にわたる旅を終えたのち犬養さんは、ライフワークとなる聖書の研究を続けながら、世界中の難民の支援活動に力を尽くすこととなる。アジア・アフリカ・中東・東欧など、96歳で天寿を全うするまで生涯、その活動に尽力し続けた。その生き方の土台となったものがなんだったか、本書を読むとわかるのである。
汽車のコンパートメントで乗り合わせたイタリア人労働者たち。黒人専用養老院でひっそり暮らす老女とシスター。災害救助ボランティアに駆けつける頼もしいアメリカ人やドイツ人の学生たち。パリで再会した孤独なインドネシア人の女性。人々との関わりの中に浮かび上がるのは、犬養さんの「フェアネス」である。どんな場所でどんな人と、どんな状況で出会っても、犬養さんの立ち向かい方はシンプルでフェアである。偏見なく、余計な構えもなく人の前にすっと立つ、立てる、それこそが、どこででも絆を紡ぎだす原点なのだろう。
本書に「友情のパスポート」という章がある。
犬養さんは、サンクスギビングの日に、ある移民の家に招かれる。フランスとアイルランドにルーツを持つその家では、労苦の甲斐あってささやかながらもアメリカで暮らしが立つようになった感謝の印に、毎年、故郷を離れた旅人やホームのない貧しい人に門戸を開き、休暇をともに過ごす習慣を持っていた。温かく迎えられ、ともに祝いの準備をし、贈り物を送り合い、祈りをささげ、故郷の歌を歌う。家族同様に過ごす時間の中で、一家の主人のブルナフさんは言うのである。
ごらんなさい。私はフランス人です。アメリカの市民権は持っていますが、私の気性もものの考え方も私の中を流れる血も、フランスのものですよ。私の妻はアイルランド人です。妻の心はアイルランドの心です。私たちのとなりの家の人たちは、まだドイツ語を家の中では話すようなラインランドの人たちです
私は確信していますが、人間を超えた偉大なるものの前に額ずいて、その偉大なるものの前に、たがいが兄弟姉妹であることを意識することこそ、我々の時代に一番必要なのです。それだけが、友情のパスポートになるのです
貧しくて上級学校に上がれず、線路工夫の仕事につくことになったが、それでも「人命を預かる仕事」に誇りを持ちながら働いて、サンクスギビングにひとりぼっちの娘を招きもてなすこともできるようになった。そんなしあわせな家庭を築けたことに感謝の心を抱いている人が、遠く離れた日本から来た娘に、しみじみとこの言葉を送る。地の塩として生きる人々が、どこにでもいるのだということを改めて深く感じさせてくれる章である。
私はまたたいてもう消えそうになったローソクの焔をみつめながら考えた、共通なはだかの人間性に触れようとしてゆく限り、どんな未知の国に一人で行っても自分は一人きりではないのだ、ブルナフさんの言った「友情のパスポート」はどこにでもある、どこに行っても探せば必ずみつかるのだ、と
誠実と寛容の土台となるのは、フェアな精神と知性のきらめきだ。それを犬養さんは旅の中で見つけ、私たちはそれを本書の中に見出す。この本が1958年ベストセラーになったということは、当時の日本の社会に、それを欲する人々が多くいたことを表している。高度経済成長に伴って生まれた厚い中間層の人々は、誠実・寛容・フェアネス・知性といったものを健やかに吸収して、この国を成長させた。が、あれから60年の時を経て、戦後、進歩し続けるかに思われた私たちの社会は、経済的にも、精神的にも、ある意味で、挫折感を覚えている。不誠実・非寛容・アンフェア・反知性という影が、社会のそこここに見え隠れしている。そんな時代に、この本は、あの時以上に大切な意味を持つのではないだろうか。いま、私たちの手からこぼれ落ちようとしているものを、もう一度取り戻すために。いまこそ、再び、この一冊が多くの人々の手に届いて欲しいと思うのだ。