では、あの犠牲とは何だったのか?『生かされなかった八甲田山の悲劇』

塩田 春香2019年03月21日 印刷向け表示
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生かされなかった八甲田山の悲劇
作者:伊藤 薫
出版社:山と渓谷社
発売日:2019-03-16
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八甲田山雪中行軍遭難事故――日露戦争を前にした訓練で、厳冬期の青森県八甲田山麓に入った陸軍歩兵第五連隊が遭難。199人もの死者を出した、世界最大級の山岳遭難事故である。この事故が100年以上経つ現在も広く知られているのは、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』によるところが大きい。

だが、それはあくまで「小説」であって、史実ばかりではない。実際の雪中行軍は、どのように行われ、なぜ遭難したのか? その実態を追及したのが、青森の自衛官であった著者の前著『八甲田山消された真実』である。そこには映画「八甲田山」に登場する高倉健や北大路欣也のような格好良い指揮官の姿はどこにもなく、ただただ無謀で悲惨な行軍の実態が暴かれている。

『八甲田山死の彷徨』には、遭難事故を受けて、精神や鍛錬だけでは吹雪に勝てないと知った軍上層部がようやく重い腰を上げ、寒中設備を全面的に改良することに決めたというくだりが出てくる。つまり、第五連隊の犠牲が、日露戦争での日本の勝利につながることを示唆する内容である。

では、あの大惨事の教訓は本当に、その後の日本に生かされたのか? それが、『八甲田山消された真実』の続編にもあたる本書のテーマである。

雪中行軍で負った重い凍傷から手指や足を切断しながらも、91歳の天寿を全うして最後の生き残り証人となった、小原元伍長。その小原元伍長も、「あれが為になったんでしょう。日露戦争で勝ったんですよ。防寒具から何から全部変わったんですから」と語っている。

そして本書にも、八甲田の事故から3年後に起きた日露戦争黒溝台付近での会戦における日本兵の服装は、大幅に改善されている様が記されている。だが著者は、小原伍長の上記の発言に続けて、こう述べている。

自分たちの事故によって、防寒の服装や装備が改良され、その効果が厳寒の満州で発揮された。そして、寒さに強いロシア軍に勝つこともできた。自分達の犠牲が勝利につながったのだと思わずにはいられなかった。そうしなければ、自分たちが犠牲となった意義を失ってしまう。手や足を失い、不自由な生活を余儀なくされた六十八年間は一体なんだったんだ、となってしまう。

そう、本書ではそのタイトルの通り、八甲田の教訓が、その後に生かされなかった側面に光を当てている。舞台を日露戦争に移し、そして時折あの冬の八甲田に戻り、語られる。

教訓が生かされなかった事例はたくさん紹介されているのだが、わかりやすい例としては、わずか4日あまりの黒溝台付近の会戦で、師団の半分は凍傷になっていたことが挙げられる。これは、軍医として戦地に赴いていた森鷗外によって記録されていた。装備は改善されたはずなのに、なぜか?

下記は、小原伍長による雪中行軍の回想である。

中隊長も軍人、伊藤中尉も、長谷川准尉も皆凍傷に罹らないでしょう。(中略)若い将校は全部死んでいるでしょう……中隊長も、伊藤中尉も日清戦争に行っているんでしょう。日清で凍傷に罹って傷の治し方なんか知っているんですよ。

私の中隊長なんか、夜になると靴を脱いで一生懸命足を揉んでいましたからね。そんなの何もわからんですよ。何のために揉んでいるのか。

つまり、八甲田の雪中行軍において、職業軍人たちは凍傷予防の知識をもっていたが、それが隊にはまったく周知されていなかった。下士卒たちは、凍傷の怖さを知らないで放置したり、凍えた手足を火にあぶって温めたことで、かえって重度の凍傷になってしまった。

「凍傷は怖いから、お前らもしっかり足を乾かして、よく揉んどけよ!」くらい、部下たちに声をかけてくれてもいいじゃないか、中隊長!と、腹が立ってくる。結局は日露戦争においても、この衛生教育や情報共有がきちんとなされていなかったことが、凍傷患者を多数出してしまった大きな原因と言えそうだ。

結果的にこの黒溝台での会戦は、日本軍の辛勝に終わった。しかしそれは、日本が善戦したというよりは、これまたあきれるようなロシア側の事情によるところが大きい旨を著者は指摘している。そして、八甲田での失敗がきちんと生かされていれば、犠牲はもっと少なく済んだはずだとも。この会戦がいかに激戦であったかは本書でご覧いただきたいが、八甲田の雪中行軍で生き残った主要人物たちの多くも、ここで命を落としている。

もしあの八甲田での失敗をきちんと研究し、その後の政策にも生かしていたなら、日本は無謀な太平洋戦争に突き進むこともなかったかもしれない……と感じてしまうのは、大げさだろうか。210人中199人が亡くなった過酷な雪中行軍を生き延びても、弾に当たればあっけなく死んでしまう戦争というもの。上層部の不仲や気まぐれで、現場に立つ兵士達の亡骸が積みあがる虚しさ。

身近に目を移せば、今も会社や組織の上層部の不仲や気まぐれに振り回されて疲弊する現場の社員やスタッフなど、巷にいくらでもいることだろう。日常の中にも、八甲田の教訓は生かせることがたくさんありそうな気がするのだが……。

八甲田山 消された真実
作者:伊藤 薫
出版社:山と渓谷社
発売日:2018-01-17
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