まず本の表紙をよーく見ていただきたい。
きれいな女性だが、どこか人工的な印象を抱かないだろうか?
肌の質感はなんだかプラスチックを思わせるし、髪も地毛だけじゃなさそうだ。なによりも「目」が明らかにナチュラルではない。こんなに目の大きい人物がいるだろうか。しかも黒目にも細工が施されているみたいだ……
あなたが抱いた印象は間違いではない。この女性の顔は加工されている。実はモデルは著者自身。本書にはリアルな著者近影も掲載されているので、ぜひ見比べていただきたい。(ちなみに実際の著者はかなりの美人である)
女の子が現実とは違うビジュアルへと自分を加工する技術。これを「盛り」という。スマホなどで写真を加工することはいまや珍しくないが、ここでいう「盛り」はもっと奥が深いものだ。デジタルの加工技術だけでなく、メイク道具を駆使してビジュアルを手作りすることも含まれる。
著者は日本の美人画を研究する中で、ある時代に描かれた美人画が、作者も被写体も違うのに、ほとんど同じに見えることに気づく。これはつまり、実際の顔をリアルに描いたのではなく、作者はその時代に流行した“型”に沿って顔をデフォルメして描いたということではないか−−。この視点を得たことで、著者の研究はきわめてユニークな領域へと踏み込んでゆく。
美人画の歴史に、化粧道具やプリクラ、アプリやSNSといったテクノロジーの歴史を重ね合わせてみると何が見えてくるか。著者は本書で、現代日本の美意識の形成に女の子とテクノロジーが果たした役割を鮮やかに解き明かしてみせた。読めば目からウロコがボロボロ落ちる、知的興奮に満ちた一冊だ。
「女の子?盛り?なにそれ??」
それでもピンとこないおじさんたちがいるかもしれない。そんな人には以下のエピソードを紹介すれば十分だろう。
ある日、著者のもとに世界的に有名な高級ブランドからメールが届いた。
フランス本社の化粧品マーケティング部長がぜひ会いたいというのだ。
著者が海外向けのサイトに寄稿した英文記事を読んで興味を持ったのだという。それは「なぜ日本の女の子たちはそっくりな顔をしているように見えるのか?」という記事だった。
日本の女の子たちはみな流行の装いをして、一見そっくりに見える。だが彼女たちにおしゃれを頑張る理由をきくと、意外にも「自分らしくあるため」と答える。一見「均一」にみえる彼女たちが「個性」を口にするのはなぜか。著者が女の子の行動をつぶさに観察すると、その理由が見えてきた。女の子は、みんなと同じような大きなつけまつげをつけていたが、アイメイクをするところを見ると、メーカーが異なる4つの商品を切り刻み、組み合わせて、自分仕様に細かくカスタマイズしていたのだ。
つまり、女の子たちの言う「個性」とは、「大きなつけまつげをつける」といったコミュニティで共有している基準を守った上で表現される「個性」なのだ。一から作り上げられる個性ではなく、コミュニティとの関係性の中で相対的に作られる個性だったのである。
部長の関心はこの「コミュニティで作られる個性」にあった。個人主義の西洋人も、SNSの登場によりコミュニティに所属するようになっている。となると今後は、化粧のあり方も変化していくのではないか−−。そんな仮説を持って、わざわざ話を聞きにやってきたのだった。世界的なブランドが日本の女の子からヒントを得ようとしているのだ。ここまで説明すれば、おじさんでも「盛り」は最先端の研究テーマらしいと理解できるだろう。
とはいえ、このようなテーマに先行研究などあるはずもなく、著者は独自に「盛り」を数量的に計測できる装置などを開発している。これらの装置を使って、たとえば「実際の顔」と「インターネット上の顔画像」のズレを計測するのだ。実際の顔を三次元撮影して得られたモデルを、コンピュータ上でインターネット上の画像と向きが揃うように回転させ、ふたたび撮影して二次元化して、両者の特徴量のズレを算出する、といった手法である。
それだけではない。「盛り」がいつからはじまったか、その歴史的起源も調べていく。著者の目のつけどころで感心したのは「プリ帳」だ。女の子がプリクラで撮影したシールを貼った手帳のことである。著者の調査では、プリクラが誕生した直後に高校生だった1978年生まれから、2007年に中学生だった1993年生まれまでの、15年間にわたる年代の女性たちで、プリ帳をいちども作ったことがないという女性とは出会ったことがないという。プリ帳には写真だけでなく、たくさんの文字も記されていることに目をつけたのは慧眼だ。
裁判記録や墓誌、教会の名簿のような史料をもとに、歴史の中に埋もれていた民衆の暮らしを生き生きと現代に甦らせる歴史学の手法がある。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルクは、それを「ミクロストリア」と呼んだ。プリ帳に女の子たちが書き込んだ文字の中から「盛り」という言葉が使われ始めた時期を突き止めようとする著者は、さながらミクロストリアの探究者だ。(「盛り」の意外に長い歴史についてはぜひ本書をお読みいただきたい)
女の子たちはコミュニティの中で、常にそれぞれの個性を磨いている。だから頑張ってメイクで盛った女の子に、褒め言葉のつもりで「“すっぴん”のほうが可愛い」などというのはご法度だという。自分たちの工夫や努力を認められるほうが女の子たちは嬉しいのだ。
かといって、やみくもに盛ればいいかというと、そうでもないらしい。
たとえばプリクラで極端にデカ目にし過ぎてあまりに別人のようになると、「盛れ過ぎ」ということになり、「盛れていないのと同じ」とみなされる。
加工を重ねるうちに急激に別人感が高まるポイントを著者は「盛れ過ぎの坂」と名付けている。ロボット工学で言うところの「不気味の谷」みたいで実に面白い。
きわめて興味深いのは、女の子たちの美意識のあり方に日本の伝統につながる要素が見出せることだ。
たとえば制服の着崩し方が流行ると、制服のない学校の子もあえて制服風の洋服を着るようになる。誰かが服の細部に変化をつけると、それを真似する子が現れ、するともう次のアレンジが生まれ……という具合に、次々に細部の流行が変化していく。女の子たちがコミュニティで共有される型(制服を着ること)を守ったうえで、それを破って個性を表現し、真似されたらそこから離れるというプロセスは、「守破離」の美意識そのものである。
セルフィー全盛の世にあって女の子たちの興味が「他撮り(他の人に撮ってもらうこと)」に向かっていること(「自撮り」はもはやダサいらしい)、女子中高生の間ではSNSを通じて韓国の女の子たちと国をまたいだコミュニティができていることなど、本書には初めて知る事実が満載だ。
コミュニティと協調しながら、社会へのちょっとした反抗心を胸に、自分らしく新しいものを求め続ける。そんな女の子たちの軽やかな生き方に、世界が注目しはじめているのだ。こんな痛快なことがあるだろうか。「日本すごい」と言いたい大人たちは、謙虚に本書に学ぶべきだろう。女の子たちは、あなた方の想像よりも遥か先を走っている。