『あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知 』 文庫解説 by 文月 悠光

新潮文庫2019年12月28日 印刷向け表示
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あなたは、なぜ、つながれないのか :ラポールと身体知 (新潮文庫 た 129-1)
作者:高石 宏輔
出版社:新潮社
発売日:2019-12-23
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2015年10月、池袋・某書店の人文書フロアで、私は立ち尽くしていた。棚に面出しで置かれた『あなたは、なぜ、つながれないのか』を前に、動けなくなっていたのだ。正直レジに持っていくには、少し勇気の要る本だった。実際、その日カゴに入れていた本は詩集ばかりで、本書は当時の自分が手に取る系統の本ではなかった。

それでも、刊行当初から否応なく気にかかる一冊だった。タイトルが目に飛び込んでくる度、反射的に目をそらしたくなる自分がいた。『あなたは、なぜ、つながれないのか』。他者と打ち解けることができない自分の弱さを責められているような不安、弱さを突きつけられることへの恐れ、それでも「他者とつながりたい」という気持ちがせめぎ合い、整理できない感覚に陥った。
「人に壁を作ってるよね」と冗談交じりに指摘され、内心図星だった学生時代。「そんなコミュニケーションの仕方じゃダメだ」と非難され、反省する一方で、「当たり障りない会話や、浅い共感の言葉で場をやり過ごすことの何が悪いのだろう?」とムッとすることもあった。それは集団に息苦しさを覚える私が、自分なりに生みだした処世術のつもりだった。

しかし大学を出て、集団ではない一対一の人間関係が増えてくると、そうしたコミュニケーションの虚しさや、相手を遠ざけて傷つけている可能性を考えるようになった。私は人と関わるのが煩わしく、そのくせ「ひとりは寂しい」とも感じていた。本書との出会いは、そんな葛藤の入り口に立っていた私の心を確かに震わせた。

本書は、「他者」を通して見出される「自分」を感じる方法を様々な訓練や身体的なエクササイズを交えて紹介する。著者個人の気づきのエピソードが、半ばエッセイ風に連なっており、その時間の中に留まりながら読む独特の味わいがある。単行本版の宮台真司氏の帯文に「本書は悩む人のために書かれたマニュアルではない。むしろ悩まずに生きる人の歪みが焦点化されている」とあるように、「特にコミュニケーションに問題を感じていない」人にこそ読んでもらいたい一冊だ。

相手が「何を言ったか」、自分が「どう返したか」という表面上の「言葉」ばかり気にかけて苦しんでいた私。そんな「言葉」一辺倒だったコミュニケーションの世界に、本書は「自分や相手の身体を観察する」という新しい視点を与えてくれた。正に新風を吹き込んだのだ。

本書をはじめ、高石さんの著作では、他者の内面を見抜き、細やかに感じ取っていく様に感嘆する。一方で、「その観察は決めつけに過ぎないのではないか」という疑いも生じてくる。「当の自分も、相手に観察される立場であることを、どう感じているのか」と著者の高石さんに尋ねたい気持ちになった。けれど、何度か読み返すうちに、その感触は変わっていった。他者を捉える目が同時に自分自身へ向く感覚。これこそが、著者にとっての「観察」なのだ。「観察」は一方的なものではなく、相手から受け取ったことを、自分の内側に問いかけていく相互的な営みであったようだ。

個人的にはナンパにもキャッチの声かけにも、いい思い出はない。ただ「声をかけられた」経験を思い起こせば、同じ路上の声かけでも、つい相手の話に耳を傾けてしまう場合と、端から相手にせず足早に立ち去るパターンの両方があった。場所(ターミナル駅の近くか、人気のない道か)、時刻、タイミング、気分。様々な条件の障害、自他の境界をするりと抜けられ、気づけば相手のペースにのせられている。

あのとき、内心で彼らはどう思っていたんだろうか。「ちょろい女だ」と嘲笑っていたのか、歩き去る背中に「大した女でもないくせに」とミソジニーを募らせていたか。ナンパをする男性にそんな声を重ねてしまうのも、私の中の男性嫌悪の投影なのかもしれない。

この本との出会いが無ければ、そんな体験を思い起こすことも無かった。声をかけた彼らの誰一人として私をちゃんと観察した人はいないだろうと思っていた。だからナンパ師の目線で、声をかけた女性について書かれた高石さんの著書を読んで驚いた。ナンパという行為自体を積極的に肯定はできないけれど、ナンパを通して、生身で闘い、傷つきにいく「そんな人もいるのか」と興味を抱いた。

本書を何度も読み返す中で、私自身も他者との関わりに気負わなくなった。最初手に取ったときは、その文章を味わうように読んだ。三年後に再読した際は「どうにも苦手だな」と感じる人との再会を控え、より実践的な目線で、自分の身体と対話するように読んだ。特に、はっとしたのが〈身体の状態によって感情や感覚が作られてしまうことがある〉という提言。確かにそうだと納得し、会話の言葉に詰まったら、まず肩の力を抜くことを意識しはじめた。とにかく自分の身体や、無自覚な緊張に気を配るようになった。

そうしてみて気づいた。「苦手だ」と感じるのは私の苦手な気持ちの投影であったのかもしれない。解せなかった過去のやり取りを、本書を読みながら一つずつ思い返して、あのとき自分はこういう風に受けとめれば良かったのか、と飲み込むことができた。

〈身体を動かしながら緊張している部分をほぐしてリラックスしていくと、自分の中に溜まった感情により意識が向けられる〉
〈「きっとあの人は自分のことをこう思っている」
 とか、
「あの人はこういう人だ」
 という思い込みが、自分を苦しくさせている。葛藤することで、そういう自分の思い込みが次第に露わになってくる〉
〈自分が「こう思い込んでしまっているのだな」ということを見つめることで、自分の見たくなかった自分が見えてきて、それを誠実に認めたとき、苦手な人を受け容れることができるようになる〉

その人との過去のやり取りや、声の調子を思い出す。自分の感情とは一旦切り離して、彼の言葉や様子だけを捉え直してみた。すると、言葉の裏で相手が何を伝えようとしていたのか、私のどんな態度に不満を持っていたのか。疑問に感じていた事柄が、「実はこういうことだったのでは」と霧が晴れるように見えてきた。

引っかかっていた過去のやり取りを一つずつ思い返して、絡まった気持ちを解いていく。その作業は、私に落ち着きを与えてくれた。次第に、情けない自分自身がよく見えてきた。「嫌われないように、舐められないように、相手を怒らせないように」と過剰に緊張して、自己防衛でがんじがらめになっていた自分の姿が。

私は緊張する相手、過去に怖い思いをさせられた相手と接するとき、「負けたくない、傷つきたくない」という思いでピリピリする。目に不自然な力が入り、肩は強張り、相手へ投げつけるような話し方をしてしまう。私の緊張は相手にも自ずと伝わり、お互いバリアを張ったまま話しているような、居心地の悪さを感じることが多かった。

相手を怒らせてしまった、拒絶された、と思っていたけれど、むしろ怒っていたのも、拒絶していたのも自分の側だったのではないか。そう思ったときに、言葉の裏で相手が何を伝えようとしていたのか、私のどんな態度に不満を持っていたのか、過去の出来事のイメージが、相手側の目線で私の中に流れ込んできた。視界が開けていく心地がした。

実はそのことに気づくまで、何度も同じような指摘を親しい人から受けていた。でも、私は気づくことができなかった。「そうかもしれないけど……」と自分の思い込みを正当化するような理由を並べて、いちいち打ち消していたのだ。人に求めるまでもなく、答えは初めから自分の記憶の中にあったのだ、と拍子抜けした。

「迷っているくらいなら解消せねば」と思っていた人間関係の幾つかは、壊される前にこの本が止めてくれた。「固執」でも「無視」でもなく、ゆるやかに距離を置いて見守る。人間関係の心地よい在り方を少し身に着けたのだ。

読み返す度に立ち止まるポイントが変わるのも、本書の魅力だろう。解説執筆のために再読した今回は、第6章〈トランスを「生きるための技術」として考える〉を興味深く受け取った。

本書が示すのは〈コミュニケーションのためのトランス〉であり、〈意識が内側、外側の両方に向いている状態〉を指す。目の前の他者と同調することで、〈相手に対するさまざまな感情、感覚、イメージが湧いてきて、それらに導かれるように対話をすることができる〉という。

「トランス」(変性意識状態)自体は、決して特別なものではない。うまくいっているときほど、自然に入り込んでしまうものだからだ。私自身、小さな生きものや自然との同調は、幼い頃に親しんでいた感覚だった。ただ、それを対話の中で使うという発想はなかった。
〈より自分の感情や感覚を感じる機会を作る工夫〉と本書では表現されている。工夫、つまり努力や才能ではない。誰でも自分の感覚を相手に対して開くことができるのだ。

私は時折、声を発しながら、文字を綴りながら、自分の身体の内側へ降りていく(まるで薄暗い洞窟へ潜っていくような)感覚に陥る。
〈一つ一つの言葉から相手の体験したことを自分の中にも作っていくと、イメージを作り上げるのに欠けているものが見つかる。そしてその部分がどうなっているのかを聞いてみることで、相手と一緒に話を展開させていけるようになる〉。

これはエッセイや詩の書き方ともよく似ている。書きながら、自分が綴った文章の読者にもなり、欠けている部分にどんな言葉が必要か問いかけ、書き加えていく。

ただ、白紙に言葉を連ねるのと異なり、生身の他者には反応がある。不意の一言で傷つけてしまうかもしれないし、その逆も起こりうる。緊張で自意識ばかり膨らんで、頑なになる。コミュニケーションの場では、相手との「同調」を切らさないための忍耐が必要だ。

詩を書くことと、生身の人と話すことの中間にあるのが「朗読」の場かもしれない。私は人前で詩を朗読するとき、その空間に合わせて、声の硬さや柔らかさ、読み上げるペースをコントロールする。聴き手が、背筋を張って緊張している場合は、声を和らげて、語りかけるトーンに持っていく。軽く流して聞いてもらいたい場合は、テンポよく勢いをつけて読む。特に聞いて欲しい言葉は、目線を上げてはっきりと読む。

聞き手とのコミュニケーションを楽しみながら、朗読する。緊張、弛緩、驚き、興味、好奇心。お客さんの反応に私が動かされている。そのとき「見る側」と、「見られる側」は溶け合って、主従が切り分けられない状態になる。ステージと客席の境界線が曖昧になる。

読むべきテキストは手の中にあり、それを目の前の人々へ魅力的に「届ける」ことだけに意識を集中させれば、自然とそうなる。逆にうまくいかないときがあるとすれば、聴き手に「見られる」ことに過敏になってしまった場合だ。「失敗した」と思うと、つい目の前の相手を無視して、反省モードに入ってしまうが、これには、本書の〈自己嫌悪になるのとは違う〉という指摘が刺さる。まずは不安や緊張を自分の中に認めて、まっすぐに見つめてみたい。

私の中にも眠っているだろう〈自分では感じられていない暗い部分〉。〈自分の感覚を味わい、その中に答えを見つける〉ためには、他者に光を当ててもらうことが必要だ。私たちは対話しながら、互いに光をかざし合う。本書は、コミュニケーションに新たな可能性を見出した。

閉じながら開いている。開きながら閉じている。他者との関わりは、植物の気孔のように、呼吸を繰り返す生きものみたいだ。私もその輪に出入りをしながら、これからも距離をとって観察したり、緊張してみたり、気をゆるしてみたりするのだろう。

他者との<出会いによって見出される自分>を恐れずに迎えてみよう。

(令和元年一二月、詩人)

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