『毒薬の手帖』それはダーティな1920年代アメリカで躍動する鉄人毒物学者二人の泥臭く革新的な功績

西野 智紀2020年01月06日 印刷向け表示
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毒薬の手帖 ―クロロホルムからタリウムまで 捜査官はいかにして毒殺を見破ることができたのか―
作者:デボラ・ブラム 翻訳:五十嵐加奈子
出版社:青土社
発売日:2019-12-25
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たまらなく渋くてカッコいい主人公の紹介から始めたい。表紙の写真左、試験管を持つちょっと神経質そうな男が化学者アレグザンダー・ゲトラー、その隣にいる大柄のヤギひげおじさんが病理学者でありニューヨーク市監察医務局長も務めるチャールズ・ノリスだ。本書『毒薬の手帖』は、現代科学捜査の基礎を築いたこの毒物学者二人が力を合わせて人間の暗い欲望が充溢する1920年代アメリカを照射した、読み応えたっぷりの犯罪ノンフィクションである。

ゲトラーとノリスのキャラ立ちに加え、各章のタイトルはクロロホルム、シアン化合物(青酸)、ヒ素、一酸化炭素、タリウムといった、ミステリ小説・漫画でおなじみの毒物が並び、内容概略を読むだけでもテレビドラマのネタとして格好の題材のように感じる(実際アメリカ本国でドラマ化されたそうだが日本では視聴不可)。

だが、申し添えておくと、本書はゲトラーとノリスが一章ごとに毒物の正体を暴きバッサバッサと犯人たちを断罪していく痛快活劇ではない。なにせ20世紀初頭は産業革新によって新たな毒物も次々と産み出された時代だ。毒物学は誕生してはいたものの鑑定マニュアルは存在せずまだ発展途上の学問である。しかもノリスはニューヨーク市の監察医第一号。それまであった検視官制度は腐敗とスキャンダルで廃止になっている。

つまり、連日送られてくる惨たらしい変死体の死因特定のみならず、毒物の確実な鑑定方法の研究、証人としての出廷、助手や部下の育成、さらには監察医務局の予算確保かつ法医学の信頼と地位向上のための政治的努力までこなさねばならなかった。なかなかに異常な仕事量である。一朝一夕で解決する事件や問題などまずないことがお分かりいただけるだろう。

1918年、監察医に任命されたノリスは、さっそく籍を置くベルビュー病院の病理学棟に医務局のオフィスを設置し、チームを編成する。この棟には死体安置所に加え死体検分を行う解剖室や研究室、化学実験室もあり、うってつけの場所であった。ノリスにとってこの仕事は人生そのもので、裕福な家系に生まれた彼は必要とあれば私費も投じ、部下の給料が減らされれば自腹を切るほどだった。

ノリスとは対照的に、ゲトラーは高貴なバックグラウンドもなければ引っ込み思案で政治には無関心の学者である。しかし博打好きな性格のためか競争心旺盛で、毒殺者に出し抜かれるのをいやがり、化学分析で匙を投げることはなかった。彼のアプローチは単純明快だ。

試験方法が存在しなければ、それを生み出す。調べる手段がなければ、自分で確立する。

この不屈で優秀な化学者をノリスが手放す理由などなかった。

二人が関わった毒物をいくつか見ていこう。と、その前に、ジャズ・エイジと呼ばれるこの時代を語る上で欠かせない、禁酒法について少し説明しておく。精神主義の高まりによって制定された法律だが、工業用アルコールは製造が認められたために、粗悪な密造酒を売る「もぐり酒場」を蔓延させる引き金となってしまった。

廃材や枯れた植物からでも蒸留できてしまう安価なアルコール――メチルアルコール(メタノール)は毒性が強く、激しい腹痛に嘔吐、さらには失明をもたらす。致死量がエチルアルコールの10分の1と少量なのも恐ろしい点で、禁酒法施行後、メタノール中毒死者数は急増の一途をたどった。ノリスとゲトラーによる長年に渡るアルコールの毒性研究と政府への危険性提起は本書の読みどころの一つである。

ゲトラーは法廷に弁護側としても検察側としても立ったが、彼が関わった事件で非常に有名なものがある。1927年、ロングアイランドで起きたその生命保険殺人は、被害者が水銀、クロロホルム、密造酒を飲まされており、ぶつけられた鉛の重りで頭部は損傷、首にはワイヤーが巻き付けられているという過剰殺傷状態であった。ゲトラーは被疑者が所持していた高濃度の水銀入りウイスキーを分析したのだった。

被害者の魅力的な妻と不倫相手の共謀によって行われ、逮捕後は醜く互いに罪をなすりつけ合ったこの犯罪は二人の名前を取って「ルース対ジャッド事件」と呼ばれた。陪審はわずか90分で有罪判決が出、両者とも電気椅子送りとなり、刑執行の瞬間の写真は新聞各紙の一面を飾る。後にこの事件は小説家ジェームズ・M・ケインが題材にした(『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と『殺人保険』、どちらも邦訳されている)。

毒物によって見るも無惨な変化を遂げた死体の解剖だけでなく、このように人間のおぞましい一面とも否応なく立て続けに向き合ってきた二人の心労は如何ばかりだったろうか。

犯罪者のみならず、時には大企業とも戦った。キュリー夫妻によって1898年に発見されたラジウムは当時医療現場や様々な健康商品に使われていた。が、ラジウムを利用した夜光塗料の塗装作業に従事していた若い女性たちが次々と放射線中毒にかかる。ラジウムは体内に吸収されるとカルシウムと同じく骨に蓄積し、アルファ線が骨質や骨髄を破砕、貧血や白血病を引き起こす。ラジウム・ガールズと呼ばれた彼女らが会社相手に起こした裁判に二人は協力する。

夜遅くまで実験室にこもって働いた。報われない仕事もあった。思い返したくもない失敗もあった。1929年からの大恐慌で予算を大幅に削られほとんど無給の時期もあれば、市長と揉めてノリスが一時的に職を辞することもあった。ゲトラーが生涯で調べた死体は10万体以上に及び、また彼は書庫が一つできるほどの膨大な数の論文を執筆した。

ゲトラーは後年、有機化学者の道に進んだ息子が法医毒物学には進まないと宣言したことに理解を示したという。なぜならゲトラーの夢に、電気椅子に送った死者たちが現れるからだ。マスコミ嫌いだった彼が最後のインタビューでちょっとだけ見せた心の内はこうだ。

自分のしてきたことはすべて正しかったのだろうかと、私は何度も自問しつづけている。

たしかに、エピソードの一つ一つを取ってみても、二人の業績は華々しさとは遠く泥臭かったかもしれない。しかし、彼らの弛まぬ献身が毒物学ならびに法医学の革新的な進歩をもたらしたのは間違いない。サイエンスライターで、記者時代にはピュリツァー賞を受賞した経歴も持つ著者がこの物語に惹かれたのも頷ける。それはここまで読んで本書に手を伸ばしたくなった読者も同じだろうと思う。

ミステリ小説を読むような楽しさもさることながら、主役のおじさんたちの鉄人的タフネスさに胸が熱くなり、励まされる思いのする一冊である。

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