ドミニク・チェンって何者だ? 『未来をつくる言葉:わかりあえなさをつなぐために』

仲野 徹2020年03月01日 印刷向け表示
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未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために
作者:ドミニク・チェン
出版社:新潮社
発売日:2020-01-22
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この本、HONZの、そして新潮社の編集者でもある足立真穂から送られてきた。ドミニク・チェン、最近、ときどき目にする名前だが予備知識はまったくない。「ドミニク・チェンって何者なん?」とメッセージを送ったら、「それを聞かれるので書いてもらった一冊です」と返事が来た。さすが敏腕編集者、あざといことを言う。

そして読んだ。ドミニク・チェンが何者かがわかったかと尋ねられると、返事に窮してしまう。もちろん、その経歴や仕事、考えなどについてはある程度知ることができた。しかし、本当にわかったかといわれると、そうとは答えにくい。

 コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。「完全なる翻訳」などというものが不可能であると同じように、わたしたちは互いに完全にわかりあうことできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。

本の最後近くに出てくる文章である。こんな結論を持つ、「わかりあえなさをつなぐために」と副題がつけられた本を読んでよくわかりましたと答えたりしたら、わたしはアホですというのと同じではないか。

 生まれてはじめて他者と言葉を交わし、見知らぬ場所に足を踏み入れ、恋に落ちる-無数の「はじめて」を経てもなお、わたしたちが世界を知り尽くすことはない。それは、ただ世界が広大だから、というだけでない。常に「おわり」が別の「はじまり」となり、その繰り返しの度に新しい言葉が生まれるからだ。

冒頭のパラグラフだ。な、なんや、これは…。正直に言おう。ややこしそうなので、読まないでおこうかと思った。書店で手に取っていたら、ここでさようならしていたはずだ。しかし、まえがきにあたる「はじまりとおわりの時」くらいは読まないと、恵送をうけた義理がある。

『はじまりとおわりの時』と題された序説では、娘の出産に「自らの生の成り立ちを実感する気」がし、「それから現在に至るまで、自分はこの円環的な時間の甘美さに隷属してきたように感じる」といった内容が書かれていく。そして、簡単な自己紹介があり、次のパラグラフで締めくくられる。

 これまでに出会ってきた数多の他者たち-自分のこどもも含めて-と自分自身の生が重なる瞬間、わたしは彼もしくは彼女でありえたかもしれない世界を生きる。
 放っておけば意識からこぼれ落ちてしまう、この儚い縁起の感覚をとらえ、かたちを与えるために、わたし自身を紡いできた「はじまり」と「おわり」のパターンを書き記していくことにしよう。この過程のなかで、読者であるあなた自身の生の軌跡が喚起されるよう、祈りつつ。

最後の文章にグッときた。その祈りに応えたい。

ここまでの引用だけでわかるように、尋常ならざる密度の濃さで迫りくる文章だ。こんなに「賢い」文体の本を読むのは久しぶりである。サクサク読めるわかりやすさではない。しかし、噛みしめながら読むと必ず理解できていくのが不思議だ。読んでいると、脳の回転がすこしぎこちなく、そして、ゆるやかになっていく。文を目で追ってから腹落ちするまでのタイムラグに、意図することなく「自身の生の軌跡」が喚起されていく。まるで魔術のような本だ。

ベトナム人の父親は日・越・英・仏・北京・広東・台湾語を話す多言語話者、母親は日本人。「フランス政府に就職できるから」という生活上の理由で父親がフランスに帰化していたので、ドミニク・チェンはフランス国籍である。

東京で育つが、幼稚園から在日フランス人の学校へ通うバイリンガル。ふたつの言語が密接に脳の、いや、体のなかで絡み合っていきながらの成長。その上、「文学作品の醍醐味を知るよりずっと前から、コンピュータゲームの『文体』を噛みしめていた」。このようにして「覚える言葉の数だけ、アクセスできる感覚が増えて」いったという。

わたしも含めて、「ふつう」の育ち方をした者には、わかりえない感覚だ。脳の中で、日・仏・機械語が、時には仲良く、また時にはせめぎあったりするのだろうか。大学は米国で英語の生活。いよいよもって存在が遠ざかっていく気がするが、こういった育ちから、「完全なる翻訳」など不可能であることを悟る。

さらに、軽い吃音がある。多言語話者だが、時に思考がスムーズに言葉にならない。そこから考える、吃音とコンピュータプログラムのバグの対比。そして、プログラムと違い、デバッグできない吃音。聞いているだけでもどかしくなってくるが、そのもどかしさがこの本の通奏低音になっている。なるほど、そういう人なのかとわかると、前のめりに読みたくなっていく。

フランスの哲学者ドゥルーズと精神分析家ガタリの「脱領土化」。サピア=ウォーフ仮説として知られる「言語的相対論」と、チョムスキーやピンカーの「生成文法」。フランスの高校で学んだ「正反合」と剣道で習った「守破離」。偉大なる遺伝学者ウィリアム・ベイトソンの息子である人類学者グレゴリー・ベイトソンによる「分裂生成」。さらに、ゲーム理論のフォン=ノイマン、オートマトンのチューリング、ガイア理論のラブロック、生命進化のマーギュリス。

極めて多岐にわたる名前とその思索が次々と出てくる。聞いたことがあったりなかったりする内容だが、意外なほどすんなりと頭にはいってくる。どれもがドミニク・チェンという存在と渾然一体となって説明されるので、まるで脳の一部がドミニク・チェンに乗っ取られたような気さえしてくる。まんまと罠にはまっていくような快感。

ドミニク・チェンの本職は、インターネットやAIを用いて穏やかに暖かに他者とつながるためのシステム開発とでもいえばいいのだろうか。その他者には人間に限られず、なんと、ぬか床までも含まれる。紹介されている例のいずれもが、あぁなるほど面白いと思えるものばかりだ。そして、それらのシステムは最初から意図した目的に沿って働いただけでなく、逆ベクトルでフィードバック的にわかってきたことも多い。こんなところにも「対話」だけでなく「共話」があるようだ。

哲学と自叙伝が渾然一体となった一冊だ。ドミニク・チェンが開発した、入力する内容だけでなくそのプロセスも記録する『タイプトレース』を用いた10分間での遺言作成や、望ましい状態を作ってもらえるように話しかけてくる「ぬか床」、そして、モンゴルでもらった白馬など、紹介したい内容が多すぎるが、きりがない。

レビューを書くためにパラパラっと本をめくりなおしてみると、円環が意識されているせいだろうか、どこから読み出してもスムーズで新たな発見がある。文体だけでなく構成的にも内容的にも、まれに見る「賢い」本。その魅力をどれだけ伝えられたが不安である。最後に、レビュアー失格と思われるのを承知の上で言い訳を記しておきたい。これほど読んでみなければその素晴らしさがわからない本は珍しい、と。
 

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)
作者:伊藤 亜紗
出版社:医学書院
発売日:2018-05-28
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本書にも登場する、同じく軽度の吃音を持つ伊藤亜砂の本。
 

吃音: 伝えられないもどかしさ
作者:近藤 雄生
出版社:新潮社
発売日:2019-01-31
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これも足立真穂が編集した本。レビューはこちら

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