『ヒトの目、驚異の進化』「視覚の進化革命」がここから始まった 文庫解説

早川書房2020年03月06日 印刷向け表示
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ヒトの目、驚異の進化 (ハヤカワ文庫NF)
作者:マーク・チャンギージー 翻訳:柴田裕之
出版社:早川書房
発売日:2020-03-06
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著者のマーク・チャンギージーは、1969年生まれの進化神経生物学者。カリフォルニア工科大学の特別研究員、レンスラー工科大学准教授などをへて現在はヒューマンファクトリー・ラボという研究所を主宰。認知と進化についての独創的な研究で世界的に知られ、数多くの論文を学術誌に発表している。その一方で、サイエンスライター、作家、さらにとくに本書第一章とも関係のある皮膚の色の変化を浮き彫りにするメガネを開発するなど起業家としての顔をもつ。TEDやYouTubeチャンネルなどメディア露出も多い多才の人である。

本書の目的は、ヒトの進化の「なぜ?」という問いに答えることだ。なぜ人間には色付きでものが見えるようになったのか? なぜ人間の目は前向きについているのか? なぜ人間は目の錯覚を起こすのか? なぜ文字は現在のような形をしているのか? お話として面白く刺激的に書かれている。推理にぐいぐいと引き込まれていく。議論はスリリングで、おまけに視覚の四つの「超人的な能力」とかいわれると、ひょっとするとこれはうさん臭い話なのではないかとあなたは疑うかもしれない。

でも安心していただきたい。この本は、国際的に高い評価を受けた学術論文をベースに書かれている。21世紀の知覚心理学に進化論的な見通しをもたらそうという大きな野望をもった本なのだ。原題は「視覚の進化革命──最新の研究はいかに私たちがヒトの視覚について知っていると思っていたすべての常識を覆すか THE VISION rEVOLUTION:How the latest research overcomes everything we thought we knew about human vision」(タイトルのrEVOLUTION は、REVOLUTION[革命]と EVOLUTION[進化]を重ねている表現で「視覚の進化革命」とここでは訳した)。本書に収められた研究のかなりの部分が、元は東大教師でいまでは世界に冠たるカルテック(カリフォルニア工科大学)で教えている、認知科学者の下條信輔教授を共同研究者として行なわれたと聞けば日本の読者にもいっそう親しみがわくはずだ。

本書は、四つの章から成っている。

第一章「感情を読むテレパシーの力」では、ヒトが色を知覚する能力を発達させたのはなぜなのかが考察される。

従来、霊長類の色覚が発達したのは、木の実を探したり葉を採集するためという考えが有力だった。しかし著者によれば、色覚は同類たちの皮膚が反射する光の波長分布(スペクトル)の変化を識別するために進化したのだ。これは「社会的シグナル仮説」と呼ばれるよう になった考え方だ。

人間の肌には、健康状態や、感情や気分を映し出すモニターとしての機能がある。病気だと顔色は悪くなるし、元気になれば血色はよくなる。どきどきしたり、はらはらしたり、驚いたり、怒ったりと心理状態が変化すれば、体の部位に送られる血液のヘモグロビン濃度と 酸素飽和度が変化する。そのたびに肌は赤くなったり、青みがかったり、緑っぽくなったり、 黄色くなったりという変化を繰り返している。

それを識別するのがヒトの目だ。網膜には、錐状体という光に反応するニューロンが三種類あって、肌の色を見て血液の変化を感知している。ヒトの色覚は肌の微細な変化を読み取るセンサーなのだ。ヒトの顔には毛が生えておらず肌がむき出しになっているのも、そうした肌の変化をよく読み取れるように進化した結果なのである。人間はお互いの肌の変化を読み取ることでお互いの気持ちを読み合って生活している。それが、色覚という、感情を読むテレパシーの力というわけである。

日本語でも、顔色をうかがうとか、血色がよい、血の気が引く、顔が青ざめるなどと表現される。感情は顔色で読まれる。顔にはじっさいそのような色が表れるようにできている。どのような進化、どのような生物メカニズムによってそうなったのか。ヒトの社会の基礎にある情動的コミュニケーションの「なぜ」の生物的メカニズムが説得力をもって説明されている。

第二章「透視する力」で問われるのは、なぜ人間の両眼は前向きについているのかだ。

従来、両眼前方視は、立体視すなわち奥行き知覚に利があると考えられていた。チャンギージーが注目するのは、障害物にさえぎられながらも、その障害物を透視して、 その向こうの知覚対象を見ることができる「透視能力」── 原語は X-Ray power(X線パワー)──である。

わたしたちが両目で前方を見ているとき、それぞれの目には、自分の鼻の一部や(メガネをかけていれば)メガネのフレームの一部が視界に入っている。しかし、わたしたちは、それらの障害物を、もう一方の目からの視界に重ねることで半透明化し視像を統合して両眼視の眺めをつくりだしている。わたしたちの自分の視点からの眺めは、視線をさえぎる障害物が見え消しされ、両目からの相異なった視像を統合した、(じつは存在しない)第三の目からのフィクションとしての眺めなのである。

このフィクションの目はとても便利だ。左右のリアルな目がまったくちがうものを知覚しているのに、それでもあなたの脳は別々の画像を一つの知覚に統合して提供する。この透視能力は、下草の生い茂った森の茂みの中のような見通しの悪い環境のなかで、一方の目の視界をさえぎる障害物を他方の目の視界で透明化して、障害物を越えて向こう側を見ることを可能にした。前向きの両目は、横向きの両目よりもはるかに大きな視覚認知領域という進化上の優位をもたらしたのである。

読者は、チャンギージーの透視能力仮説が、人間による知覚活動の理解を大きく書き換えることに気づくはずだ。わたしたちは、人間の空間知覚を遠近法のような立体視として考えがちだ。チャンギージーは、視線をさえぎられながらも両目の視像を交互に補完させてブラウズしながら、視界をつぎつぎにヴァーチャルに統合・編集していく運動型空間認知へと視覚理論を転換させようとしているのだ。

この本には、これまでの心理学や知覚理論が前提としてきた常識を覆し、進化の観点から学説を体系的に整理し、あらたな視覚の理論への見通しをつけようという、きわめて野心的な見取り図が書き込まれている。第三章、第四章になると、その狙いははっきりする。

第三章「未来を予見する力」では、これまで視覚心理学で研究されてきた、様々な「錯視」の問題に統一的な説明原理──錯視に関する「大統一理論」──を与えることが企てられる。

視覚の始まりにあるのは、なによりも「運動」である。ヒトが光を受けてそれを神経組織が視知覚に転換するには、約0.1秒かかる。知覚が成立するまでには、たとえ1秒に1メートルのゆっくりしたペースでヒトが歩いていても10センチ、バスケットボールの時速36キロ(秒速10メートル)のボールを受け取る場合には1メートルの誤差が生ずる。ヒトの視覚認知は神経的に遅れて成立するのである。

それゆえに、人間は現在を知覚するために未来を先取りする「未来予見」の能力を進化さ せてきた。ヒトの視覚は、知覚の神経的遅れを先取りして埋め合わせ、前方への動きにおい て現在時を先取りするメカニズムを備えているのである。

著者によれば、すべての錯視を説明するのは、この未来の先取りの運動原理である。平面上に図形がユークリッド幾何学的に描かれていたとしても、ヒトはおもわず前方に向かって進んでいく運動知覚という条件を当てはめて見てしまう。運動の方向に向かって非ユークリッド空間的に歪んで図形は見えてしまうのである。実験心理学やゲシュタルト心理学以降、さまざまなかたちで事例が収集されてきた錯視は、こうした現在時先取りの原理にもとづいて特徴を割り出し分類してゆけば、すべて同じフォーマットで扱えるというのが、チャンギージーにより提唱される錯視の「大統一理論」なのである。

そして、図形の錯視の統一理論から、文字シンボルの大統一理論へと向うのが、第四章「霊読する力」だ。人間は自然界の事物を見るための視覚特徴をもとに文字をつくってきたのであり、それらの視覚特徴という観点から言えば、人間はみな同じ文字を読み書きしているという、まったく驚くべき仮説が語られる。これを文字シンボルの「普遍分布」説という。

世界には漢字やひらがな、アルファベット、ハングルなどさまざまな文字がある。フェニキア文字からアルファベットができ、漢字からカタカナやひらがなが生まれたという系譜はあっても、それぞれはみんな違う文字で、たとえば漢字とアルファベットには何の関係もないと思われてきた。しかし、チャンギージーによれば、そうではない。世界中の文字はみんな同じ文字で、ヒトはみな同じ文字を書いている、というのだ。

世界の文字を基本的な形態要素に分解して、周期表のような表に並べてみる。すると、世界のすべての文字は三ストローク(字画)以内で書くことができる形態要素からできていることが分かる。

漢字だと偏とか旁を構成している要素は、てん、はね、はらいなどのストローク(筆画) の組み合わせ。アルファベット文字もTやXなら二ストローク、KやHなら三ストロークという具合にストロークの組み合わせパターンでできている。

その出現頻度の分布を見ると、現実の世界のなかでものを見分ける視覚特徴パターンと出現分布がほぼ完全に一致していることが分かった。

人間は自分たちが自然界のなかに事物を知覚する手がかりになる特徴をもとに、同じような形態要素を組み合わせて文字の特徴要素をつくってきたのである。

このチャンギージーと下條の普遍分布仮説は、文字理解にとって革命的なインパクトをもたらした。なにしろ、それまでバラバラに存在していると考えられてきた世界の文字が、じつはまったく同じ要素から成り立ち同じひとつの原理に従っていることが分かってきたのである。20世紀の言語学では、ノーム・チョムスキーが多種多様な世界の言語はじつは同じひとつの生得的な普遍文法に従っているという生成文法を提唱したが、チャンギージーや下條の研究によって、こんどは文字に関して普遍的な生成原理が見えてきたのだ。

じっさい彼らの研究はフランスの脳神経学者スタニスラス・ドゥアンヌらの文字中枢のニューロンリサイクル仮説などと結びつき、現代の文字研究に新しい潮流を生みだしていくことになった。

「視覚の進化革命」という原題が示すように、まさに目からウロコという表現がぴったりの衝撃的な本書なのだが、あ、そうなんだ、と新しい知見に驚くだけでなく、著者とともに、さらに「なぜ?」という問いをぐいぐい推し進めていくと、この本のほんとうの面白さをあなたは味わえるはず。人間の進化について、理解が深まっていく経験をするはずだ。

2020年2月 東京大学名誉教授 石田英敬

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