『ポスト・スポーツの時代』いま、私たちが
見ているのは、これまでとは違う「スポーツ」だ

首藤 淳哉2020年07月17日 印刷向け表示
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ポスト・スポーツの時代
作者:敦久, 山本
出版社:岩波書店
発売日:2020-03-28
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プロスポーツの試合が再開され、スタジアムに観客も戻ってきた。
だが野球もサッカーもすっかり様変わりしてしまった。withコロナ云々を言いたいのではない。もちろんそれもあるが、実は今回のコロナ禍以前に、野球もサッカーも大きく変質していたのだ。いま私たちが目にしているのは、これまでとは違う別の競技であるとすら言えるかもしれない。本書はこれを「ポスト・スポーツ」と呼ぶ。

スポーツにどんな変化が生じたのか。そのことにいち早く気がついていたのは、あのイチローだった。昨年、現役引退を発表した記者会見で、イチローはきわめて重要な発言をした。メジャーリーグでの選手生活を振り返り、2001年と2019年とでは、野球の種類が変わってしまったと述べ、現在は「頭を使わなくてもできる野球になりつつある」と危機感を表明したのだ。

ここ数年、メジャーリーグを席巻している「フライボール革命」をご存知だろうか。メジャーでは2015年から「スタットキャスト」というトラッキングシステムを導入している。軍事技術を応用した高性能追尾レーダーによって、打球や選手の動きを細かく数値化し解析できるシステムだ。現在は30球団すべての球場で試合中、バッターの打球速度や角度、滞空時間、飛距離、ピッチャーの球速や回転数、軌道などがリアルタイムで解析されている。

このシステムの導入により起きたのが「フライボール革命」だ。
スタットキャストのデータによれば、時速158キロ以上の打球速度で、打球角度が26度から30度の範囲に打ち出された場合、8割以上の確率でヒットになり、しかもその多くがホームランになることが明らかになった。

ここからフライの有効性を示す「バレルゾーン」という新しい指標が生まれた。
バレルゾーンでボールを打ち上げるためには、水平に対して19度のアッパースイングが有効で、しかもボールの6ミリ下をインパクトすると最も飛距離が出るという。子どもの頃、野球をやっていた人は、アッパースイングをしてはいけないと教わったはずだが、データはセオリーとは違う結果を示した。

選手の意識も変わった。データ通りにバットを振れば、体が大きくなくてもホームランが打てることがわかったからだ。副作用と引き換えにステロイドで鎧のような筋肉をつける必要なんてない。ヒューストン・アストロズのホセ・アルトゥーベは、身長167センチにもかかわらずメジャー屈指の強打者である。

ピッチャーの側もデータに頼るようになった。これによりリリースされたボールが辿る軌道を表す「ピッチトンネル」という新しい考え方が生まれた。バッターは打席から7メートル先の地点までストレートと同じ軌道でやってくる変化球を、高い確率でストレートと錯覚する。このため、ピッチャーは変化球の軌道をできるだけストレートに近づけようと工夫する。

リリースされたボールがキャッチャーのミットに収まるまでの時間は、0.4秒〜0.5秒。この短い時間の中で、錯覚をめぐる攻防が行われる。ヤンキースの田中将大は、指先の微妙な感覚で、ボールのスピンの量を調節することができるという。変化球(たとえばスライダー)の曲がり幅をわずかに変えることで、打者に錯覚を起こさせているのだ。マー君は、繊細な身体感覚をデータの側にアジャストさせることに成功したアスリートといえる。

この「リアルタイム分析」と「身体のデータ化」が「ポスト・スポーツ」の柱だ。テクノロジーの進化は、リアルタイム分析がもっとも難しいとされていたサッカーでさえも丸裸にしつつある。

サッカーは究極の「複雑系のスポーツ」だ。試合中、両チームの選手は常に動き続けている。状況は絶えず流動的で、ボールをもらった選手はパスの出し所を瞬時に判断しなければならない。

ドイツサッカー連盟は、2006年の自国開催のW杯で優勝を逃したのをきっかけに、世界的なソフトウェア企業であるSAPと組んで代表チームの強化に取り組んできた。試合中の選手の動きや位置関係、パスの成功率などを絶えずデータ化し、リアルタイムで解析することで、選手個々のボールの保有タイムの短縮を目指した。この結果、ドイツ代表のボール保有タイムは、2006年に平均2.8秒だったのが、2014年には平均1.1秒にまで劇的に短縮されたという。

W杯ブラジル大会でのドイツの圧倒的な強さを覚えている人も多いだろう。その象徴的なゲームが、ブラジルがドイツに1対7で破れた「ミネイロンの惨劇」だった。ブラジル人は音楽が鳴り始めると自然と体を動かし始める。老いも若きもその腰つきはセクシーだ。生命の律動にそのまま身を委ねたかのような動きは、彼らのサッカーにも通じる。ブラジルサッカーを観ていると楽しくなるのは、プレーの向こうに生命の讃歌を感じるからだろう。ブラジル代表はサッカーの祝祭性を体現する存在だったが、最先端のテクノロジーの前に為す術もなく敗れ去った。

いま、私たちが目撃しているのは、旧来のスポーツが「ポスト・スポーツ」にその地位を取って代わられようとしているプロセスである。そこで問われているのは、「スポーツとは何か」という定義だ。

ロンドン五輪では、南アフリカのオスカー・ピストリウスがカーボン繊維製の義足を装着して初めて陸上男子400メートルに出場した。その一方、義足を装着して走り幅跳びで北京とロンドンの優勝記録を超える8.47メートルを飛んだドイツのマルクス・レームは、健常者の大会への出場が認められていない。サイボーグ・アスリートは「生身の身体」で競い合うというスポーツの「公平性」を揺るがすからだという。だが「生身の身体」と言うなら、ロンドンとリオの陸上女子800メートルで金メダルを獲得した南アフリカのキャスター・セメンヤが、男性ホルモンを高めるアントロゲンの数値が生まれつき高いという理由で、競技から締め出されたのはおかしい。医学的な処置によって「不自然な身体」にならなければ競技に復帰できないというのだから矛盾もいいところだ。

本書が浮き彫りにするのは、「生身の身体」や「自然な身体」に「健全な人間性」が宿るというスポーツの神話が、もはや成り立たなくなっているという現状である。障害者が先端テクノロジーを用いたサイバー義体で競い合う「サイバスロン」や、世界的な盛り上がりをみせる「eスポーツ」など、従来のスポーツの定義におさまらない競技が次々と誕生している。

試合のありかたも大きく変わった。ビッグデータをもとに選手のパフォーマンスやボールの動きはパターン化され、プレー中に不測の事態が起きることのないよう制御される。ゲームの「不確実性」や「偶然性」は注意深く排除されるようになった。そんな中で私たちは、ゲームの面白さをどこに求めればいいのだろう。

イチローが示したのは、スポーツをプレーする主体が、選手自身ではなくテクノロジーになってしまっていることに対する危機感だった。スポーツがテクノロジーと切り離されることはもはやあり得ない。大切なのは、私たちがこの新しい局面にどう主体的に関わっていくかではないか。

「自然な身体」とか「スポーツを通じた人間性の形成」とか、私たちがこれまで不用意に使ってきた言葉は、これからは再定義を余儀なくされるだろう。本書はそんな新しい時代を概観するのにきわめて有益な一冊である。

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