『わかりやすさの罪』「すぐにわかる!」はそんなにいいことか

首藤 淳哉2020年07月21日 印刷向け表示
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わかりやすさの罪
作者:武田 砂鉄
出版社:朝日新聞出版
発売日:2020-07-07
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渋谷の書店で著者を見かけたことがある。
出版社の人と一緒に新刊の宣伝にでも訪れていたのだろう。棚の前でお店の人になにやら熱心に説明しているのは担当編集者のようだった。

その時の著者の様子が強く印象に残っている。
通路を通るお客さんの邪魔にならないように、プレゼンに熱が入り、動きが大きくなっていた編集者の背中を、さりげなく押さえたりしていた。本のPRそっちのけで、著者はひたすら周りに気を配っていたのである。

本書を読みながら、この時の光景を思い出した。
著者は「見えてしまう人」だ。人々が憑かれたように何かに夢中になっている時、著者の目はついつい他人が見落としていることを見つけてしまう。

「あんな素晴らしい人はいない」と誰もが誉めそやす人物がいたとしよう。著者はこの人物が小さく舌打ちをした瞬間を見逃さない。そしてこの人物の本質は、むしろ著者の目がとらえた舌打ちのほうにあったりする。誰にでも笑顔を振りまく人物が内に隠し持ったダークな部分が、著者には見えてしまうのだ。

今回、著者に見えてしまったのは、「わかりやすさ」をやたらと求める世間の風潮である。注意深く周りを見回してみてほしい。昨今あらゆる場面で、短時間で手際よく説明できる人が持て囃されていないだろうか。昔は立板に水で言葉を並べる人間にはむしろ胡散臭さを感じたものだが、いつからかわかりやく説明できる人間ほど評価されるようになった。

「わかりやすさ」はいまや社会の常識と言っていい。
国会中継をみると、「◯◯について賛成ですか反対ですか、一言で答えてください」と野党議員が大臣に迫っている。閣僚の劣化ぶりにはため息が出るが、込み入った政治的課題について簡単に答えが出せると無邪気に信じている野党も能天気だ。人々の利害が対立し、にわかに結論が出せないテーマこそ、政治家たちの熟議が必要なのに……。

うんざりしてスマホのニュースサイトを開くと、今度は「1分でわかる世界経済」みたいなタイトルが目にとまる。近年流行りのインフォグラフィックスを駆使して、コロナ危機の世界経済への影響とやらがスッキリと説明されている。そんなに簡単に説明できるのなら、世界経済が大恐慌に陥った時も、簡単に解決策を示せるのかとツッコミを入れたくなってしまう……。

あぁダメだ。著者の本に触発されてしまって、身の回りのいろんなことが気になって仕方ない。脳のどこかにあるスイッチを勝手に押され、見えていなかったことが急に目につくようになってしまった。この本のせいで、これまで気づかずにスルーしていたことが見過ごせなくなってしまった。「物事を手早く理解できる自分は頭がいい」と自負している人には絶対におススメできない本だ。読めば、そんなのは知性でもなんでもないと思い知らされることになるだろう。

なるほど「わかりやすさ」を持て囃すノリはこの社会にあまねく浸透している。これはきわめて危険な風潮ではないだろうか。なぜなら「わかりやすさ」を過剰に求める社会は、「わかったつもり」になった人を大量に生み出すからだ。

しかもそういう人々を欺くのはいとも容易い。もし自分が権力者なら、「ワイズスペンディング」とか「グレーター東京」とか、もっともらしい(でも意味のわからない)ワードを散りばめて、有権者を「わかったつもり」にさせることに全力を注ぐだろう。

イラストやグラフで図解された世界経済の現状はとてもわかりやすいが、「1分でわかる」ものは、所詮「1分で忘れる」ものでしかない。お手軽に得られた情報ほど簡単に頭の中から消えてしまう。残るのは「わかったつもり」の気分だけである。

物事は本来、そんなに簡単に理解できるものではない。
新米記者だった頃、こんなことがあった。ある職人にインタビューした音声を編集して原稿とともに提出したところ、デスクに突き返された。その時、こう言われた。「お前、『あなたにとって、この仕事は一言で言うと何ですか?』って聞いていたな。失礼な質問だと思わないか?」

今でも思い出すたびに、恥ずかしくて消えたくなる。インタビュー相手には、さぞバカな記者だと思われたことだろう。相手が膨大な労力を注ぎ込んできた仕事に対して、社会人になったばかりの記者が「一言で説明しろ」と言っているのだ。なんと無礼で傲慢な態度だったか。

だがこの手の「あなたにとって◯◯とは一言で言うと何ですか?」みたいな質問は、いまでもテレビではよく見かける。聞き手が何も考えていないことがバレバレだ。以前、ある作家が、その手の質問にはひたすら「愛です」と答えておけばいいと言っていた。たしかに万能な回答ではあるが、それに対し「なるほど〜」と視聴者が納得していたとしたら、もはやそれはコントである。

ところで、ここまで書いてきたものの、本書の内容にほとんど触れていない。「ちゃんとわかりやすく紹介しろ」というツッコミが聞こえてきそうだ。でもこれでいいのである。書評は本を要約することではない。一言でなんてとても言えないことがあるからこそ、わざわざ一冊の本が書かれる。そうやって書かれた本をかいつまんで説明するなんて著者に対して失礼だろう。

ここで書いたのは「私自身がこの本に触発されて考えたこと」である。この本になにが書かれているかは、ぜひあなた自身で確かめて欲しい。読んでみると、とても大切なことが書かれていることに気づくだろう。そしてそこから枝葉が伸びて、いろいろなことを考えてしまうはずだ。あなたはこの本を読んでどんなことを考えるだろうか。あなたと私の感想はたぶん違う。その違いこそが、この社会を支える強い土台になるのだと思う。
 

翻訳できない世界のことば
作者:エラ・フランシス・サンダース
出版社:創元社
発売日:2016-04-11
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世界は翻訳できない言葉で溢れている。つまりそう簡単に人はわかりあえない。でも簡単にわかりあえないからこそ、この世界は素晴らしく面白い。
 

うるさい日本の私 (角川文庫)
作者:中島 義道
出版社:KADOKAWA/角川書店
発売日:2016-05-25
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著者と同じように「見えてしまう人」の本。コロナ禍によって咳マナーなどのアナウンスがより一層うるさくなった。

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