『南極で心臓の音は聞こえるか 生還の保証なし、南極観測隊』逃げ場なしの極寒、懐にジョークを携えて

西野 智紀2020年08月07日 印刷向け表示
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南極大陸。平均標高は2020メートルと高く、95パーセント以上が雪と氷に覆われた大地。内陸に行けば行くほど気温が低くなり、常時マイナス30℃を下回る。冬場には驚異のマイナス80℃を記録することもある。

そんな南極大陸内陸部、人間がいなければどんな生物もいない場所で、風すら吹かない時は、あまりの静寂ゆえに、己の心臓の脈打つ音や、血管を血が流れる音が聞こえてくるという。高校時代、学校に講演に来たOBからその伝説のような話を聞いた瞬間、著者の南極に行く夢が始まった。

そして2017年11月、30歳を前に、第59次南極観測隊の気水圏研究者として、南極の地に降り立った。本書は、1年4ヶ月に及ぶ彼の南極生活のリアルドキュメントである。この本のベースとなった著者のブログは、当時放映されていた女子高生4人が南極を目指して奮闘するアニメ『宇宙よりも遠い場所』に言及したことでも注目を集めた。

さて、この滞在記、なかなかユニークである。こんな極寒の大地での生活なのに、切迫感というか、悲愴感が全くないのだ。いや、愚痴めいたものはあるにはあるが、著者の語り口がジョーク混じりであっけからんとしていて、ついつい吹き出し笑いをしてしまうくらい面白いのである。

たとえば本書の「序」で、南極から帰ってきての感想をこんなふうに述べる。

おかげで貨幣制度が怪しくなったり、服はガムテープで補修するものではないということを忘れたり、33人以上人間がいるとコアリクイのように威嚇するようになったり、公衆浴場の先客に対して「おつかれさまです」と声をかけそうになった。

また、南極といえば可愛らしいペンギンだが、すでに見飽きてしまったのか、このように書く。

ペンギンのルッカリー(繁殖地)は遠くから見てもすぐにわかる。売るほど大量のペンギンがおり、吐き出した餌や糞便であたりの色が変わっている。獣臭い匂いがする。ずげっずげっと電車内で寝こけている睡眠時無呼吸症候群の中年男性のような鳴き声が溢れている。

もちろん、真面目な部分は真面目に綴っている(著者が言うところの「コンプライアンス遵守」)ので、ずっとこの調子というわけではない。が、専門用語や研究内容解説などは少なく、肩肘張らずに読める新書となっている。

本題に移ろう。南極観測隊の暮らしとはどんな感じか。

著者は観測隊のうちの「越冬隊(30名程度)」に属する。越冬隊は、砕氷船「しらせ」に乗って南極に訪れ、氷床斜面拠点や昭和基地など各所を移動しながら一年以上観測を行う。無論、南極の夏や冬、太陽が沈まぬ白夜やその反対の極夜なんかも身をもって体験する。

文字通りの極地だけあって、様々な逆境が彼らを待ち受ける。まず服装。観測はじっとしているだけでなく、雪を掘ったり掻いたりといった運動も伴うため、基本は乾きやすい素材による重ね着だ。しかし、実は南極はとても乾燥した場所であり、兼ね合いが難しい。

加えて、手先、足先の凍傷対策は当然として、日焼け対策も必須だ。南極の日差しは非常に強く、清浄な雪面は可視光に対して90%以上の反射率を示す。サングラス、日焼け止めクリームは欠かせない。

天候、気象判断も重要だ。南極では時折強い暴風雪「ブリザード」が吹き荒れる。日本の観測隊ではA級、B級、C級の指標を設けており、1960年、A級ブリザードの中で外出した隊員一名が命を落としている。著者らも2018年2月に激しいブリザードに見舞われ、観測拠点の発電機が停止、仕方なく拠点棟を放棄し、雪上車での生活を余儀なくされている。

読んでいても心が折れそうになる過酷環境だが、基地や拠点内での日常風景は打って変わってほのぼのしている。

綺麗な雪にかき氷シロップをかけて食らったり、生態調査の一環として釣りに繰り出し、釣果を美味しくいただいたり。昭和基地には大量のDVDを揃えたサロンや酒を提供するスタンドバーなどもあり、娯楽は割と多彩である。著者はキャロム・ビリヤードにハマり、他の隊員からお菓子を巻き上げたそうだ。

さらに昭和基地では、「越冬生活に潤いを与え、心身のストレス発散の一助」のため、観測隊一人一人に学校の係活動のような役割が与えられ、バレーボール大会や野菜むきむき大会、氷上流しそうめんの開催、新聞やアルバム作成といった活動で余暇を楽しんでいる。

毎日の食事も重要だ。曰く、過去の隊次で、調理担当が調理に不慣れという、「一歩間違えればゴリラの大暴動祭」事件があり、昨今は調理隊員への審査は厳しくなっているそう。幸い、著者の隊次では、調理隊員は和食や洋食だけでなく、フレンチ、イタリアン、中華、インドやベトナム料理となんでもござれの人たちであった。著者が人生で最も良質な食事をしていた時期だったというのが笑ってしまう。

こうして見てくると、意図してではないだろうけど、著者の軽妙な書きぶりの謎が解けてくるような気がする。南極生活に関して、こんな記述がある。

隊員は基本的に志願して観測隊に従事しているわけだが、何事も順風満帆にいかないのが人生である。極寒、暗黒、人間関係。夢見る子どもに向けた南極教室のような中継では、さもみんな仲良しこよしのように見せてはいるが、昭和基地はひとつの閉鎖社会に過ぎない。どこの社会でも同じだが、悪口、陰口、諍い、暴動、なんでもある。ないのは労働基準法くらいのものだ。

しかし、その不満を噴出させたら余計に暗くなる。逃げ場もないから悪化の一途だ。だからこそのお祭りイベントであり、ジョークなわけである。我々の住む環境とは全く違えども、人間社会をうまく回していくための普遍的テクニックがここに秘められているように感じる。

南極に行きたくて、分岐に直面したらなるべく南極に近い道を選んできた著者だが、帰還した今、指針を失って虚脱状態にあるという。個人的意見だが、他人を不快にさせない冗談をすらすら言える(書ける)人はそうはいないと思うので、次の目標がどこであれ、ぜひその才能を活かし続けてほしい。

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