「医療政策」は政治家だけのもの? 『世界一わかりやすい「医療政策」の教科書』

吉村 博光2020年08月25日 印刷向け表示
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
世界一わかりやすい 「医療政策」の教科書
作者:津川 友介
出版社:医学書院
発売日:2020-06-01
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

ベストセラー『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』は、目の前の暗雲を取り払ってくれた本だった。様々な本能のせいで、私たちがいかに物事をドラマチックに誤って捉えているかがわかった。また、その著者は世界を股にかける医師であり公衆衛生の専門家だ。だからこそ、その本に書かれた医療現場のエピソードが強烈な印象を残した。

公衆衛生、ひいては医療政策。その本が私の心に宿した関心の種は、コロナ禍の中でずっと温められてきた。日本いや世界中の指導者が、医療崩壊を避ける根本的な手立てを見いだせずにいることに歯がゆさを感じたのである。そんな時に手に取ったのが、本書『世界一わかりやすい「医療政策」の教科書』だった。

この「医療政策」という言葉は、国民皆保険が浸透している日本人にはあまり馴染みのない言葉だ。しかしご存知の方も多いと思うが、アメリカでは大統領選挙の大きなテーマの一つである。本書の最終章でも、オバマケアからトランプケアへの流れを説明している。それは、本書の各章の実践編でもあり、とても興味深い内容だ。

これまで、医療制度の面で日本はアメリカから学ぶ点は少なかったかもしれない。しかし今後の低成長経済や超高齢化を考えると、このまま持ちこたえるのは困難だろう。いずれ変革を迫られたとき、各国の「医療政策」の知見が参考になるのは間違いない。これまで安泰だっただけに、現在の日本は「医療政策」後進国であるという認識が必要だ。

このコロナ禍は、変革の議論を早めるかもしれない。感染拡大以降、医療機関の経営が難しくなってきているという。「医療政策」のうち「医療の質」に直結する重要課題だ。医学書の専門出版社が刊行したこの本は、一見、私にはハードルが高そうに見えた。それでも購入することにしたのは、本書の執筆意図に次のようにあったからだ。

本書の内容をきちんと理解することができれば、ハーバード大学やUCLAの修士・博士課程に留学しなくても同水準の理解度に達することができるように工夫しました。この本を通じて、日本の政策立案者・医療関係者・国民が、医療政策の本質に関してより深く理解し、(中略)日本が医療の質を保ちながら「持続可能な医療」の実現に成功することを切に願っています。  ~本書「はじめに」より

留学したのと同水準なんて、魅力的ではないか!また、対象読者には「一般国民」も入っている。著者はこの文章に先行して、細かい説明は省略し普遍的な知識を紹介した、とも書いている。早速ペラペラめくってみたところ、「教科書」然とした作りではあるものの、確かに整理が行き届いていて私でも理解できそうな印象を受けた。

しかし購入して読み始めると、「医療政策学」は「分野横断的な」学問だと書いてある。章立てを見ると、領域が広く私には骨が折れそうだ。でも、読む動機があって、辿り着くゴールが魅力的で、私には十分な時間がある。費用も労力も、留学したと思えば安いものだ。私は、この森に入り込むことにした。さて、どのような分野を横断しているのか目次を紹介しよう。

第1章 医療経済学
第2章 統計学
第3章 政治学
第4章 決断科学(費用効果分析)
第5章 医療経営学(医療の質)
第6章 医療倫理学
第7章 医療社会学
第8章 オバマケアからトランプケアへ──アメリカの医療制度の現状

このうち、著者の専門の関係で「医療経済学」と「統計学」に多くのページが割かれている。しかし、他の分野についても医療政策学の枠組みを理解する上で必要な知識はカバーされているように思えた。各章の冒頭部分で各分野を概観し、それに導かれるように読み進められる非常に親切な作りになっている。

「臨床医学」が病態生理とエビデンスを組み合わせたEvidence-based medicine(EBM)を通じて患者の健康改善を目指すように、「医療政策学」はセオリー(主として医療経済学の理論)とエビデンスを組み合わせたEvidence-based policy making(EBPM)を通じて、医療の質の向上や医療費の適正化を目指すものだと定義されている。

著者によると、現在ではデータもエビデンスも十分に存在するため、このEBPMを軸に政策立案することが世界標準となりつつあるそうだ。では、日本の政策立案の現状は、どうなっているのだろうか。専門家会議はあるものの、官僚や政治家などの経験を基にした従来的な政策立案がされているのではないだろうか。

医療政策アドバイザーと政治アドバイザーの分離。政治家と政策研究家など複数の目によるPDCAの実施。世界標準のセオリーとエビデンスに基づいた立案(EBPM)は行われているのだろうか。やはり、疑問を抱かざるを得ない。ある調査では「コロナ禍に対する指導者への国民評価」で日本は最下位だったという。

率直に言ってそれは、指導者個人の問題というよりフレームワークがないからではないか。「医療政策」後進国だからではないか。もっともっと、ここの議論を深めていくことはできないものなのだろうか。本書には、医療政策を理解するのに必要な政治学の理論も紹介されており、日本の今後のために必要なものを示唆しているように感じた。

コロナ禍がなければ、私はこの本と出会うことはなかっただろう。医療に対しては「待合室で長時間放置されることをただ嘆くだけ」で終わっていたかもしれない。風邪は万病のもとという言葉を胸にせっせと病院に向かうのを常としていた私の行為も、過剰な医療を求めるモラルハザードだったのかもしれない。

何かに不満を感じたときに対象を責めるだけでなく、「なぜそうなっているのか」を一歩引いて考えることが必要だと感じた。本書を読んでも私には実務的なメリットはないが、一つの見地が得られた気がする。コロナ禍のワイドショーに出演するコメンテーターや政治家の方々には、ぜひ一度、目を通しておいて欲しい本だと思った。

ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
出版社:中央公論新社
発売日:2014-10-24
  • Amazon Kindle

『ノンフィクションはこれを読め! 2014』電子版にて発売中!