『生と死を分ける数学 人生の(ほぼ)すべてに数学が関係するわけ』 訳者あとがき

草思社2020年09月30日 印刷向け表示
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生と死を分ける数学: 人生の(ほぼ)すべてに数学が関係するわけ
作者:キット・イェーツ
出版社:草思社
発売日:2020-09-30
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これは、2019年9月に刊行されたKit Yates の初の一般向けの数学啓蒙書The Maths of Life
and Death: Why Maths Is (Almost) Everything の全訳である。

著者のキット・イェーツは、オクスフォード大学で数理生物学を専攻し、現在はバース大学で数理生物学の上級講師をしている。オクスフォード時代には、『素数の音楽』のマーカス・デュ・ソートイの下で「一般の人々への数学啓蒙活動」に従事しており、今も、王立研究所やグーグル、TEDで講演や記事の寄稿といった啓蒙活動を続けている。それらの講演で著者自身も述べていることだが、これは、数学者のための本でも学校数学をさらうための本でもなく、数学が自分たちの日々の暮らしとどう関わっているのかを知りたい人のための、「日々の暮らしで、往々にして気づかぬうちに、数学の大きな影響を被った人々の物語を集めた本」である。

著者は、読者に数学と現実との強い結びつきを皮膚感覚でわかってもらうために、1本の式も使わず、次々にアナロジーを繰りだして、現実と数学がどのように関わっているのか、そのさまざまな接点を説明している。したがってこの作品は、原書が刊行された2019年9月の時点でも現実との関わりが十分強かったのだが、その後起きたいくつかの事態によって、「今だからこそ」という色合いが加わることになった。

ここで簡単に内容を紹介しておくと、第1章では、放射性元素の核分裂や受精卵の細胞分裂、バクテリアの増殖から「ネズミ講」まで、自然界や日常のいたるところに見られる「指数的な増加」が紹介されている。これは、ざっくりいうとドラえもんの「バイバイン」と同じで、たとえば2倍、2倍、2倍と同じ倍率で増える増え方なのだが、著者はこの「同じ倍率で増える」というシンプルな表現に隠された意外な性質の数々を、具体例で明らかにしていく。じつは、このような変化についての知識がないと、判断を誤り、さまざまな形で不利益を被る場合が出てくるのだ。

第2章では、たとえば近年一般の人々も直面することが多くなってきたさまざまな検査結果と、その解釈の裏に潜む数学が紹介される。わたしたちは、個人向け遺伝子検査や乳がんの早期発見を目指すマンモグラフィー検査・出生前診断の結果をどう捉えるべきなのか。検査結果にただ一喜一憂するだけでは、心身に不要なダメージを被ることにもなりかねないのだが……。

第3章では、法廷における数学の活用と乱用が紹介される。「科学的証拠」は、司法の場で罪の有無を判断する際の決め手だが、この分野でも数値が使われることが多くなり、司法における数学の重みは増している。前章で得られた「偽陽性と偽陰性」という視点を加味して紹介される複数の事例からは、数学に強そうな権威にひれ伏していれば正しい裁きが行われるわけではない、という普遍的な事実が浮かび上がってくる。ちなみに、カルロス・ゴーンが違法行為をしてまで避けようとした日本の司法にも触れられており、日本の司法に対する外からの見方が垣間見えて、なかなか興味深い。

第4章では、政治家のSNSでの発言や宣伝やマスコミの世論調査などに登場する数値や統計などが、数学的に検証されている。初歩的な数学的推論をするだけで、「あのテロは強力な組織による犯行だ!」とする政治家の主張の真偽が明らかになり、ちょっと注意をしただけで、化粧品会社が自社製品へのモニターの評価をいかに膨らませて誇大な広告をしているかがわかるのだ。さまざまな時事問題がSNSや紙面やテレビ画面を賑わすなかで、それらの情報にどう向き合えばよいのか、右から 左へ聞き流して手をこまねいているだけではまずい気がするが、ではどうすれば……と思っている人もきっと多いはずだ。

第5章では、打って変わって10進法をはじめとする記数法と単位が取り上げられている。記数法も単位も人間が外界を記述するために人工的に定めたものなので、複数のやり方が存在する。したがって、たとえば変換の際に誤差や勘違いなどさまざまなミスが発生し、人命に関わる事故や大惨事にいたる可能性がある。その意味では、記数法や単位もまた、数学と現実のシビアな接点なのだ。

第6章では、AIとも深く関わるアルゴリズムの数学が取り上げられている。アルゴリズム論議は、ややもすると機械万能礼賛に陥りがちだが、著者はいくつもの事例を通して、あくまでも人間あってのアルゴリズムであることを明確にし、わたしたちにも使える手軽なアルゴリズムを紹介して、「アルゴリズム」の本来の意味を伝えている。

第7章は、数理生物学者たる著者の専門の一部である、感染症と人間の戦いにおける数学の役割がテーマとなっていて、有史以前から人類を悩ませてきた感染症との戦いにおける転換点、感染症の数理モデル、感染症の流行や終息の現実、さらには集団免疫とワクチンの意味などが、明快なアナロジーを用いて紹介されている。

つまりこの作品は、数学に深く依存する社会で日々膨大なデータや数値まみれの情報に曝されるわたしたちに、生きる上での重要なツールである数理的な視点、「数学リテラシー」を提示しているのである。したがってその内容は基礎的で普遍的なのに、なぜかここに来て本の内容と呼応する現実が表面化、俄然時事性を帯びてきた。

章の見出しだけでピンとくるのが現在進行中の新型コロナウイルス感染症のパンデミックで、第7章では、日本においては新型コロナで一躍注目を浴びることになった数理疫学のモデルの基本が平易 に語られている(感染症の数理モデルは、物理現象の数理モデルと違って、その予測に基づく人工的 な介入によって予測が外れることで社会に貢献する側面があることに注意!)。この作品を訳出し始 めた段階では、日本の多くの人にとって、感染症による死亡者が台風や地震などのほかの大災害の死 亡者数と比べて格段に多いという事実はいわば他人事だった。ところが今回のパンデミックによって、 それらの人々にとっても感染症との戦いが身近で切実な問題となった。さらに、第2章で紹介されている検査の捉え方とその結果の受け止め方、偽陽性、偽陰性などの議論は、まさに新型コロナのPCR検査を巡る論争を理解するためにも不可欠といってよい。

そうかと思えば、第4章で取り上げられている「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は軽くない)」運動も、原著が刊行された頃にはアメリカからイギリスへ波及する程度だったのが、その後ヨーロッパ全体をも席巻し、日本でもデモが行われた。では、この運動の大本になっている、「警官による黒人への過剰な暴力」をどう捉えるべきなのか。新聞の見出しになっているから、あるいは偉い人がいっているから、過剰な暴力があった、あるいはなかったと決めつけて、棚上げしてよいのか。 世界中の国々が、そして文化がさまざまな意味で密接に絡み合っている現在、「他山の石」という言葉は、わたしたちにとってこれまで以上に大きな意味を持っているはずなのだが……。

これらの時事的な問題の具体的な処方箋や解決策が、ずばりこの作品に書かれているわけではない。 だがこの本を通して、たとえば人間が感染症の流行にどう対峙してきたのかを知り、ブラック・ライブズ・マター運動を巡るマスコミでの発言に関する考察を深めることは、時事的な問題に対する自分自身の基本的な構えを作る上で大きな意味を持つ。断片的な情報の奔流に押し流されることなく、目の前の現実を自らの目と頭で解釈しようとしたときに土台となるもの、視座の基本を手に入れることができるのだ。社会が激しく動いているからこそ、長期的な視点、深い洞察が必要なのである。

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