『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 こうして私は職業的な「死」を迎えた』げに恐ろしき、出版界の裏事情を綴る真摯な暴露本

西野 智紀2020年12月09日 印刷向け表示
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出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記
作者:宮崎 伸治
出版社:フォレスト出版
発売日:2020-11-24
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この本をここで紹介していいものか迷ったが、著者の真摯な姿勢に心を動かされたので、おもねらずにレビューしてみたい。

本書は、ベストセラー『7つの習慣 最優先事項』の訳で一躍売れっ子翻訳家になった著者が、出版社との様々なトラブルを経て業界に背を向けるまでの顛末を綴った、げに恐ろしきドキュメントだ。

驚くことに、名前こそ伏せてあるが、理不尽な目に遭わされた出版社のプロフィールが本文や帯でずらずら書かれている(業界歴の長い人ならすぐにわかるのではないか)。著者の名前をネットで調べれば翻訳を担当した書籍がばんばん出てくるし、もはや告発書、暴露本と言っても過言ではない。

まずは著者が経験した「天国」から。

出版翻訳家を夢見たのは21歳のとき。大学卒業後は大学事務員、英会話講師、産業翻訳スタッフと徐々にステップアップしながら英語力を磨き、イギリスの大学院への入学許可を獲得して29歳で渡英する。イギリスでのカルチャーショックを題材にしたエッセイが好評で味をしめ、作家としても生きていきたいと願うようになる。

帰国後は再就職先を探しつつ、各出版社に英語学習参考書用の原稿や自分の修士論文の日本語訳、イギリスの新聞に掲載されたエッセイをまとめたものを送って売り込みをかけた。大半は梨のつぶてだったが、いくつかの出版社から仕事の連絡を受けた。

文筆業だけではとても食べていけないから、深夜帯の電話番アルバイトの合間に翻訳作業をするという二足の草鞋生活であった。自分の名前が入った翻訳書が書店に平積みにされ興奮したり、知人女性から電話で声援を受けて嬉しくなったり。物書きなら誰もが「わかるわかる」とうなずいてしまう感慨だ。

そして、すでにベストセラーを記録していたスティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』の第2弾の翻訳依頼が舞い込む。期間は3カ月。第1弾は別の翻訳者二人が共訳で2年半かかった代物なのに、今度はたった一人、92日間でこなす。

どだい無理な話だが、留学時代から原著をすでに読み込み、他の人より圧倒的に翻訳が早いと自負する自分ならできる! と無我夢中に取り組んで、見事完成、その年の年収は1000万円を超えた――。

かくして栄光を経験した著者であったが、ここが翻訳家としてのキャリアハイだった。あちこちの出版社との出版契約をめぐる問題に時間と労力を割かれ、次第に精神を摩耗させていってしまうのである。

実のところ、駆け出しの頃から出版社の雑なやり方に頭を悩まされていた。

あるエッセイ集366本の翻訳を頼まれ全部訳したのに、編集者から「100本前後にしたい」と急に言われ、その編集作業まで任される。最初印税率を6%としておきながら、まさかの見本日に4%と言い渡される。三校ゲラチェックまで進み、出版目前まで行きながらなぜか何度も発売延期となり、しまいには見合わせとなる……。

著者は出版中止を告げられたときのショックをこう述べる。

大袈裟かもしれないが、それは出版翻訳家にとっては出産間近の「子ども」を堕胎されるのと同じくらいの大打撃である。

この感覚は著者だけのものではない。7年がかり、1650ページもの翻訳書が出版中止となって訴訟を起こしたある翻訳家は、「わけもなく涙が出てくる、死すら考えることがある」と陳述書に書いたという。

翻訳家は個人事業主であり、言うなれば出版社の下請けで、どうしても立場が低い。争えば仕事を失いかねない。若いうちは涙を呑むことも多かった著者だが、それでもうんざりして、自衛策として契約時に出版契約書もしくは覚書を要求し、入念な内容確認を心がけた。また、法律知識を身につけ、裁判沙汰にもそなえた。

しかし現実は無情で、売れっ子になった後も地獄のようなトラブルは絶えなかった。

せっかく訳したのに訳者名を外され原著者が日本語訳を手がけたことにして刊行されるという前代未聞の事件。そして、10カ月もかけた翻訳書が度重なる出版延期の末に中止、さらに初版印税振込をめぐって関係が悪化し、本人訴訟に至るという二つの裁判が本書最大の読みどころである。

興を削ぐといけないので、ここはあえて詳述しない。恐怖小説にも引けを取らぬ、このおぞましくどこか滑稽な人間模様はぜひ買って読まれたい。

それにしても、出版社とはこんなにも不誠実なものなのだろうか。著者は、印税が4%なら最初から4%と言ってほしいし、やむを得ず約束が変更になるのであればその埋め合わせをするなりちゃんとした対応を願いたいというスタンスでいるにもかかわらず、である。当然だが、本書には出版社側の言い分がほとんど載っておらずそのあたりはわからない。

ただ、出版社側の全調停欠席や一方的な和解申し立てを見るに、まさか訴えられると思っていなかった節がある。つまり、契約締結後の印税カットや出版延期・中止は日常茶飯事で、どうしてそんなに怒るか理解できなかったのではないか。

著者はそれを看過できなかった。自分が泣き寝入りすれば、他の翻訳者も同じ目に遭いかねないから。

すべての裁判で勝ちはしたものの、書店恐怖症、出版社恐怖症に陥った著者は、8年前に業界から去った。現在は警備員の仕事をしているそうだ。とはいえ、翻訳家の道を選んだことに後悔はなく、100%約束を反故にしない依頼があれば今でも引き受けるつもりだ、とのこと。

もちろん、きっちり約束を守る出版社もあるだろうし、大多数がそうであると信じたい。しかし、著者が受けた仕打ちを見るに、斜陽もむべなるかなと思わざるを得ない。ユーモラスな書きぶりが面白いが、読み終えたのち、もの悲しさに沈んでしまう一冊だ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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『決定版-HONZが選んだノンフィクション』発売されました!