『潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景』宮城の海に潜り続けた男の濃密な半生を描く評伝

西野 智紀2021年03月06日 印刷向け表示
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潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景
作者:矢田 海里
出版社:柏書房
発売日:2021-02-15
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その人にしか語り得ない境地というものがある。人生は十人十色だが、特殊な技能が必要で、なおかつ特異な環境に我が身を起き続けた人の軌跡はとりわけ面白い。

本書は、若くして潜水の才能を発揮し、宮城の海から無数の遺体を引き上げてきた男・吉田浩文の激動の半生を綴る克明の記録である。

初めての遺体引き上げは1996年。死者は交番勤務の男性警察官で、車ごと海中に突っ込む入水自殺であった。

岸壁が関係者でごった返すなか海に潜り、遺体の青白い顔に鳥肌が立ったものの、車に手早くワイヤーをくくりつけ、的確にクレーン引き上げを指示した。祖父の代から潜水業を営み、高校は日本で唯一の潜水土木を専門で教える岩手県種市高等学校に進学。29歳の若さとはいえ潜水士としては10年以上のキャリアを持つ吉田には容易い仕事だった。

機動隊や海上保安部のダイバー隊員をはるかに上回る高い技術を買われ、警察から次々と遺体引き上げ案件が舞い込むようになる。そのほとんどが自殺者だった。厄介なことに入水自殺は夜間が多く、当然のごとく引き上げも危険度が高い。多いときには一日三件もこなし、真夜中に電話が鳴るので生活習慣が狂っていく。やがて昼間の水中土木仕事も手につかなくなった。

そうした日常が一年も続くと、ふとした折に作業中の鮮烈な情景がフラッシュバックするようになった。電話の幻聴が聞こえる。タクシーの運転手の後ろ姿が海中の遺体に見える。引き上げ中に無数の腕に引きずり込まれる悪夢を見る、等々。

極度のストレスに晒され続けたためか、吉田は実際の作業現場で不意に笑いが止まらなくなってしまう現象に悩まされた。周囲に気味悪がられるし何より不謹慎だとわかっていても、つい笑いがこぼれる。

しかし、これは恐怖心に対する防衛本能のようなものだと考えた吉田は、逆転の発想で笑いを積極的に取り入れていくようになる。そしてそれは現場の一体感にもつながっていく。

吉田の鉄板笑い話のひとつはこうだ。あるとき、若いカップルが車で海に転落した。海に潜ると、男性はすぐ見つかったが、女性はなぜか後部座席にいた。ミニスカートを履いた美人である。慎重に遺体を動かそうとしたが、誤って下着まで全部取れてしまう。直さなければならないが、ドライスーツの手袋では蝶結びが難しい。結局、水面に上げるときに再び脱げてしまい、岸壁の婦人警官に「最初からこういう状態だったの?」と怪しまれる……。

いろいろなエピソードを列挙してきたが、驚嘆すべきはこれらはまだ本書の全7章のうちの第1章の半分程度、ほんの序の口にすぎない点だ。どこをどう切り取っても読ませる濃密さである。なんと惹き込まれる本だろうか。

加えて、吉田の人物像も魅力的だ。遺体の引き上げ専門潜水士と聞くと、さぞかし高潔な人柄なのだろうと勝手にイメージしてしまうが、上述の不謹慎な笑いの話題のように、吉田はだいぶ人間味に満ちている。

たとえば、揉め事が多い。吉田は長年の経験に基づき海中捜索について独自の方針を持っており、それは驚異の的中率を誇ったが、行方不明者家族の意見と食い違うこともしばしばあった。特に、家族が呼び寄せた怪しげな霊能者とは頻繁に衝突し、ムキになって霊能者の水晶玉を海に放り投げたこともあれば、山伏と取っ組み合いの喧嘩になったこともあった。

遺族との間にもトラブルは絶えなかった。20代のうちから小さな会社を興していた吉田だったが、遺体引き上げに際して、捜索費用に難色を示す遺族がひじょうに多かったのだ。

これは、山岳救助はお金がかかるが海の捜索はかからないという世間の先入観に起因する。また、海には山岳救助隊のような民間組織がほとんど存在しないためでもある。警察や自衛隊の捜索で済めば良いが、民間の吉田に依頼が行くことも少なくない。

そうして年間30体の引き上げを担当し、費用がしっかり支払われたのは半数にも満たなかった。吉田自ら督促に遁走したことも一度や二度ではない。

誰もやりたがらない遺体引き上げを繰り返し、悲しみの底にある遺族に多額の請求をする。いつしか吉田は引き上げ現場で「汚れた英雄」と呼ばれるようになった。

もちろん、吉田の正義感や使命感に敬意を表して、請求よりはるかに多額の謝礼を置いていった遺族もいた。警察の殺人事件捜査への協力や観光船の海難事故による迅速な人命救助で表彰されたこともある。

しかし借金は膨れ上がる一方で、部下にも裏切られ会社は破産、一時は車中生活を送りもした。それから紆余曲折を経て、海水浴場で職を得、再び人生が回り始めた矢先、東日本大震災に見舞われる――。

著者は震災後に現地入りし、東北の地で幅広く取材活動を展開しているライター。あとがきによれば、著者が吉田氏と初めて会ったのは、震災直後の宮城県名取市でボランティア活動をしている最中のこと。貞山堀で引き上げをしていた彼は、この現実を伝えてほしいと著者に語った。取材は足掛け9年に及んだ。

このあとがきに、興味深い記述がある。著者は取材をした元名取市長から「結局何を伝えたいの」と問われたというのだ。たしかに、本書には様々なテーマが内包されている。数々の生と死の物語があり、思うままに行かぬ人生模様もあり、潜水士の視点から見た貴重な震災記録でもあって、リーダビリティあふれる人物評伝でもある。しかし、結論は何なのか。著者は題材の重さゆえか安易な総括を避けている。

だが、それは読む側がそれぞれ感じ取り、導き出せば良い話である。いや、答えなどわからなくても、味わうだけで価値があるだろう。本書にはそれだけのディティールとリアリズムが備わっている。優れた文学作品と出会えたときのよう趣深い感銘をもたらす、またとないノンフィクションだ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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