今では中国ものの歴史小説家というイメージが強い北方謙三。だがデビューは大学時代に書いた純文学で、その後鳴かず飛ばず。十年余りボツ原稿を積み上げ腕を磨いた結果、エンターテインメントに転向、ハードボイルド作家として再デビューした。折からの冒険小説ブームにも助けられ次々と新刊を上梓。一時は年間に12冊の単行本を出し「月刊キタカタ」と呼ばれた時もあった。
それから40年が経つ。
小説家としての人気もさることながら、男性的でフォトジェニックな風貌はテレビやグラビアに引っ張り出されることになる。そしてこれが大事なことなのだが、本人が嫌がらなかったのだ。
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同じ時代に椎名誠、立松和平、夢枕獏など小説以外に出演する作家たちが少なくなく、いまより作家の顔の露出が求められた時代でもある。町で声をかけられることがも多かった。
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彼は旅する作家でもあった。バブル景気の恩恵にあずかり、取材を兼ねて外国旅行によく出かけていた。本人とカメラマンと編集者の3人+コーディネーターという編成だったろうか。帰国した後、グラビア誌の巻頭を飾ったものだ。旅行記も多い。
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最も多く組んだカメラマンが長濱治だ。デビュー直後から著者近影や、大物俳優とのコラボレーション、アメリカ取材など、ハレのときだけでなく、友として近くで撮ったスナップがたくさんあった。
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その40年の歴史を振り返った写真集が出た。かけだしだった「若造」のころから「老人」に足を踏み込んだ風貌の変化は3000枚以上のカットから厳選したものだという。33歳から73歳という人生の盛りの時期を見事に写し取っている。
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私はそのなかの22年間、「書き手」として大きくなっていく姿を小説家の秘書として近くで見ていた。与えられた役割は、次に何を書くのかのアイデア出しと、どんな資料をそろえたらいいか、どこを取材すべきか、誰にアドバイスを求めるかなどのアレンジであり、0から小説が出来上がっていくのに伴走するのは心躍る仕事であった。
たまにご褒美として大きな賞をもらい、売り上げの上位に名前が載る。そんな時でも、北方謙三はひたすら万年筆で物語を書いていた。カメラをにらみつけ、女優と絡むときの顔はそこにない。
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長濱はそんなところまで写す。ぼーっと座り込んで葉巻をくゆらしているとき、北方の脳細胞はフル回転している。年老いた顔のしわも残酷に写す。考えていることはきっと次の作品の構想。さらに高みを目指そうとしている。
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男の一生は顔に出る。北方謙三はいま、さらにいい顔をしている。(写真は編集部からお借りしました。無断転載禁止)
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初の旅行記。免許を取った足で向かったアメリカのブルー・ハイウェイ。トレードマークの髭はこの旅行から生やし始めた。カメラマンは井上和博。
「ソープヘ行け!」の決め言葉で一世を風靡したHotDogPressの人生相談「試みの地平線」をセレクトした一冊。デビューしたばかりのカメラマンを起用し、完全密着を許した。緊迫した写真もあった。ーあの頃のオレよ、もう一度ー
長濱と南部アメリカへの二人旅。痺れるほどカッコいい本。
雑誌「太陽」の企画で何年も続いた旅の記録。カメラマンは秋山忠右。