『傘のさし方がわからない』100文字で済むことを2000文字で伝えるレビュー

吉村 博光2021年11月11日 印刷向け表示
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傘のさし方がわからない
作者:岸田 奈美
出版社:小学館
発売日:2021-10-15
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著者のプロフィールをみたら「100文字で済むことを2000文字で伝える作家」と書いてあった。本書を店頭で手に取ったとき、私はもの凄く心が疲れていて、2000文字ぐらいの軽妙なエッセイを紙で読みたい気分だった。その前提で今回は「100文字で済むレビューをおよそ2000文字で」書いてみたい。

店頭でタイトルを見て「傘のさし方がわからない」…「はて?」となり、はじめにを読んでその意味が分かり、「確かにそういうことあるよなぁ」と感じ入って本をレジまで持っていく、という本のつくりだ。でもこの時の私は気持ちに余裕がなく、店頭でガバっと本を開き、たまたま開いたページから読み始めた。

テレビでよくやるダーツ旅行や、オンラインゲームのガチャみたいな感じだ。

最終章だ。そこには「iDeCo」の申込書類を書いている著者の姿があった。そういえば私も1年半前に会社員を辞めたときに、自分が60歳になったときの未来を想像しながら同じ書類を書いたものだ。なにせこの仕組みは、60歳になるまで途中解約できず、預けたお金が手元に戻ってこないのである。

そんな未来に大金をぶち込むよりも(ギャンブルと勘違いしてないか?)、明日家族で旅行に行った方が良くないか?私が60歳になったころには、娘も息子も生意気ざかりになって、もはや旅行になど行かないんじゃないか、などと考えたものだ。そんな自分の経験もあって、ぐいぐいと引き込まれてしまった。

著者は、風呂上りに成城石井のグァバジュース(そんな記述必要か?)を飲みながら「iDeCo」の書類を書き進めた。そして60歳でお金が支払われる時のことを想像する。その時、自分のそばに母や弟がいる保証はない。自分だけが生きている世界で、果たしてお金が必要なのか?と自問自答する。

このとき私の涙腺はつい緩んでしまった。明るいはずの「未来」のことを考えながら、なぜ私は泣きたくなったのだろう。それは、グァバジュースの魔法なのだ。著者の筆致の巧みさによるものなのである。そう気づいたとき頭から読むことを決意し、本書をレジまで持っていった。

「岸田奈美を侮ってはいけない。この著者は徹底マークである」これが私の結論だ。若くして父を亡くし、車椅子の母とダウン症の弟と一緒に暮らしながら紡ぎ出したエッセイの世界は多くの人を和ませる力をもっている。(このパラグラフがちょうど100文字)

ここにもう一言比喩的な表現で賛辞を加えるなら「読者の心のヒダヒダが猛烈に反応するエッセイ」ということになろうか。前作『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』も大好評。そもそもnoteで記事を書いているそうだ。すべて読んでみたい。「あなたに会えて良かったね。きっと私」私の頭の中でキョンキョンが大声で歌い出した。

私はふたたび涙腺を緩めつつ(求められていないかもしれないが)、自分の心のヒダヒダが激しく反応した部分を紹介したいと思う。それは、なんといっても家族に関する思いが詰まった文章である。といっても、もちろん「家族を大切に」と「長幼序あり」のような説教臭い話ではない。結構ファンキーモンキーな楽しい話である。

庶民なのに最近無理して高級外車を買った話。そのメーカーは、家族の命を守ってくれるからという理由で父が買ったかつての愛車ボルボである。この本には、なんとその実車と家族のカラー写真が挟み込まれている。おおおっ!家族の思いが胸に迫るではないか。私の父も納車の時は、必ず写真を撮っていたぞ。る、涙腺がぁ。

字が書けないと思っていたダウン症の弟さんが、いつの間にか字を書けるようになっていたこと。誕生日プレゼントをねだるためにメモを書いて、こっそり家族の様子をうかがっていたこと。幼い頃は「ウナギイヌ」のように身をよじって母の散髪バサミを逃れようとしていたのに、いつの間にか一人で美容室に行けるようになっていたこと。

弟や妹がいたり子育てをされている方なら、涙腺崩壊間違いなしだ。そしてなんと、この本のノンブルは弟さんが書いている。こういった仕掛けも心憎いばかりだ。手間を惜しまず作ったであろう、編集者の心意気がうかがえる。カバーをとった表紙には、母が乗る車椅子を押す弟さんとその前を歩く著者の素敵な写真がある。なんとも愛おしい本である。

ところで、冒頭に書いた「iDeCo」の話がどう展開していくのか気になっている方もいるのではないだろうか。いま著者は希望を見つけ出そうと模索している。そして、それがいつか見つかるという自信だけはある、と書いている。私自身、そういう思いでiDeCo」の書類を書き終えたように記憶している。

著者の母親が車椅子になって「傘のさし方がわからなく」なったように、いま普通にあるものが失われてしまっているかもしれない。でも「新たな希望が見つかる自信をもって」前に進んでいくのだ。それで大抵の悩みは解決するように思った。私は、エッセイという本のジャンルがあらためて好きになった。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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