「他人の価値」から自分を取り戻す『当事者は嘘をつく』

2022年4月3日 印刷向け表示
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作者: 小松原 織香
出版社: 筑摩書房
発売日: 2022/1/31
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すごい本が出た。
いきなりであるが、この本の最後の文を紹介したい。

でも、その窮屈な型を破って、新しい型を生み出すサバイバーがきっと出てくる。私の語りの型は、誰かの生き延びるための道具となり、破壊され、新しい型の創造の糧になる日を待っている。(200ページ)

この締めくくりの文に、この本の性格が表されている。性暴力のサバイバーである著者は、さまざまな本を読み、勉強し、考えることで生き延びてきた。血まみれになりながら知識を身につけてきたと言えるだろう。そして、彼女だけの創造する力を得てきた。引用のとおり、この本は著者の小松原さんが得た力を、また別の人に渡すために書かれた本である。
 
私が本の中で驚いた箇所がふたつある。ひとつは、読書のしかただ。文中に、ジャック・デリダの『言葉にのって』の「赦し」に関する部分を小松原さんが読んだときのエピソードが出てくる。小松原さんは、この部分を読んだとき、耐えがたい自分の傷に簡単に「赦し」を結びつけられたと憤る。私は、著者の痛みに共感しながらも「こんなに批判的に読めるってすごい……」と思った。本当に切羽詰まっている人間だからできる読書だ。

書かれた内容を真剣に受け止めながら、しかしいらだって壁に本を投げつけるほどの本との関わりが描かれるが、この本には随所に、「生きるために」勉強をする場面が出てくる。

ジュディス・ハーマンにしてもそうだ。心理学の教科書的な存在である『心的外傷と回復』の中で「赦しは普通の人間には訪れない。当事者は加害者を許す必要はない」と述べるハーマンを自分の経験に鋭く照らし合わせながら読む(本が自分のトラウマ体験を見事に解説するので、脳がそれを認識する速度についていけず意識を失ってしまうのでベッドで読んだそう)、一方「でも赦しへの私の問いは消えない」と違和感をぬぐいきれない。その後もずっと折に触れて問い続ける。今の自分がどうすれば救われるのか、生き延びたいという著者の思いが、本との真剣な対話になるという創造性が見える。
 
もうひとつは、「回復」に著者が疑問を投げかけたところだ。

性暴力被害者にとって、回復することは最も大切なことだろう。私は自分が自助グループで回復の道を歩んだからこそ、心からそう思う。しかしながら、回復するだけがサバイバーの人生だろうか。  私(たち)は、「心の傷が癒されるべき存在」として、矮小化されていないだろうか。私(たち)はたしかに傷つき、死にかけ、生きることもやっとで弱々しく傷つきやすい存在である。しかし、私(たち)の生はもっと多様で豊かな世界に拓かれているのではないか。(86ページ)

傷ついて死にかけている当事者だけにしか、見えないものがある。それこそがまさに「当事者」にしか持ちえない価値だ。著者は、被害にあった後、自分が病気になったり、自助グループに参加したり、仕事をしていったりする中で支援者の行動にとても傷つく。具体的には「回復」させようとしてくる支援者たちに、自分たちは「回収され、秘められている生命力を奪われていく」と感じる。この苦しい過程は、支援者たちの「被害者めんどくさい」という会話をはじめ、医者に「もう忘れなさい」と気軽に言われたことなどを通しても書かれる。

単純な話だった。私が日本で痛切に支援者に「わかってほしい」と思うのは彼らが「わかっていない」からである。(112ページ)

著者は、支援者には「私たちの魂の声が聞こえない」だから理解させるためには、同じ知の体系を習得して論駁する必要がある、と決心する。

わかってほしい、信じてほしい、当事者の望みは、どうしても通じない。その気持ちを抱えたまま生きるということ。その中で著者が得ていったことが、本物の知識であり、創造性というものかもしれない。著者は、「わかってほしいけれどわかってほしいと思っているかぎり、私の目指す道は拓かれない」という気持ちになっていく。
 
人間が、人間の形を保つことは難しい。私たちの自我は、ふとした瞬間に境界を失う。深く傷つけられたなら、なおさら形は保てない。だからといって、私たちは誰かのレールの上にのった「回復」をしなければならないわけではない。また、そんな回復はどこにもない。個人がそれぞれ自分で創っていくしかないのだ。

著者は、傷つき、一度人間の型を失って語ることができなくなっても、少しずつ「私の型」を取り戻し、長い月日の果てに人前で「私である」ことができるようになった。その「私」を作ろうと生き延びようとする過程の中で得た力は、何て知的で、力強いのだろうか。
 
自己とは、自由で流動的なものだと著者は言う。この本は真の意味での、生きるための知識を得ることとは何かを教えてくれる本だ。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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