『ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員』ゾルゲに見出され歴史を動かした「主婦」

2022年5月27日 印刷向け表示
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作者: ベン・マッキンタイアー
出版社: 中央公論新社
発売日: 2022/2/21
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ロシアのウクライナ侵攻により核戦争の脅威が現実味を持って語られるようになっている。こうした緊張感のある状態は東西冷戦以来であろう。実は冷戦を生み出すにいたる、核の軍事バランスを作りだすのに、大きな役割を果たした一人の主婦がいたことはあまり知られていない。彼女のコードネームはソーニャ。三人の子供の母であり、妻であり、ソ連軍情報部(GRU)の将校であり、腕利きのスパイマスターであった。

彼女はイギリスに亡命していたユダヤ系ドイツ人の天才物理学者クラウス・フックスをスカウトし、イギリスの核開発計画チューブ・アロイズ計画の詳細な情報をソ連に流していたのである。そう、彼女はソ連の核開発に非常に大きく貢献し、その後の冷戦構造を作り出すにいたる道を開いたひとりなのだ。彼女の物語は間違いなく現在の私たちの世界に影響を与えているのである。

ソーニャことウルズラ・クチンスキーは1907年にユダヤ系ドイツ人としてベルリンで生を受ける。父親は高名な人口統計学者で、現在でも使われている人口統計の計算法「クチンスキー率」の発案者として知られている人物だ。クチンスキー家は家族の構成員全てがリベラルな政治思想を持っていたようだが、特に長男のユルゲンと次の子であるウルズラの二人が左傾化する傾向が強く、ウルズラは1926年にドイツ共産党に入党するにいたる。彼女は幼少期より活発な性格で「つむじかぜ」というあだ名で呼ばれていたという。想像力豊かで筆まめな性分で文章力も高かった。これは彼女の晩年の人生へと続く伏線となる。ただしここでは、そのことに触れないことにする。気になる方は本書で確認して欲しい。

そんな彼女が生きた時代は、ソ連と共産党が貧しい労働者を救い、新しい時代を作るという希望が輝きを放っていた時代でもある。だがしかし、一方ではドイツ人労働者の間でヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働党が急速に勃興する時期でもあった。彼女も共産党のデモ行進に参加し、暴力の洗礼を受けることになる。そんな少女時代を送った後、彼女は同じユダヤ人で建築家のルディ・ハンブルガーと恋に落ち結婚する。しかし、時代は急速に悪化する。ヒトラーの下でユダヤ人の締め付けが厳しくなったため、ルディは建築家としての仕事に就くことが出来なくなってしまう。二人は新天地を求め上海の租界へと移住する。

上海で彼女が見たものは、貧しいはずのドイツの労働者がましに見えてしまうほどに貧困化した中国人労働者と、それとは対極的な贅沢な暮らしに興じる租界の欧米人と日本人の姿だった。この経験が彼女をより積極的な共産党の活動家へと変えて行く。一方で、リベラルではあるが、ソ連、及び共産党には懐疑的だったルディとの間に心の溝が生まれてしまう。息子が生まれたあともこの溝は埋まることは無かった。そんな夫との関係を忘れさせてくれる男性に彼女は出会う。それが、かの有名なスパイ、ゾルゲだ。二人は急速に惹かれあい、愛し合う。ゾルゲは深い結びつきを持ったウルズラを上海スパイ網に組み込んで行くのだ。

ゾルゲが新たな任務のため日本に渡ることで二人の関係は終焉を迎えるが、ウルズラは共産主義の理念のために、ソ連へと渡航。スパイとして専門的な教育を受ける。無論、子供を連れて行くことは出来ない。彼女はイデオロギーのために、一時的にではあるが子供と別れる決心をする。スパイ養成学校「スズメ」で彼女は優秀な成績を収め、晴れて赤軍の将校として正規の諜報員となる。それはGRUの掟に少しでも背けば即刻死刑という厳しい世界でもある。ウルズラは決意を新たに次なる任務地、満州へと潜入する。この地で、同僚であり新たな愛人となるヨハン・パトラと日本軍に抵抗する中国共産党ゲリラの支援にあたる。

一方、激しさを増す諜報戦の裏ではスターリンによる大粛清が進行。ウルズラを支援してくれた、GRUの上官たちが次々と処刑されて行く事態にウルズラは直面する。ウルズラに感化され、彼女の後を追うようにソ連のスパイとなっていた夫のルディも粛清の対象者として逮捕されてしまう。ファシストの抑圧と戦うことが自らの正義と信じていた彼女は、皮肉にもソ連の抑圧から目を背け続け、諜報員として活動を続けた。諜報員としての能力と人々に愛される性格が味方し、スターリンの大粛清を切り抜けるのだ。もっとも晩年、共産党に対し懐疑的になっていた彼女は、このとき事実に目を背けたことへの後悔を吐露している。

その後、中立国のスイスで念願の対ナチスの諜報活動に従事する。こうした状況下で対ナチス戦のためにスカウトしたイギリス人工作員レン・バートンと意気投合し結婚することになる。イギリス国籍を手に入れた彼女は活躍の場をイギリスへと移し、冒頭でのべたクラウス・フックスを操り歴史的な諜報活動に従事するにいたるのである。この間も彼女は三人の子供を育てる母として、夫レイを支え続ける主婦として、そしてイギリスの核開発の情報をソ連に伝えるスパイとして精力的に活動し続けた。後半はフックス逮捕により、ウルズラの存在に気づいたイギリス情報保安局MI5との攻防戦へと話を移して行く。

クラウス・フックスの情報が無ければ、ソ連の核開発は大幅に遅れ、アメリカの核の優位が長期間担保されたであろうことは間違いない。そうなれば大戦後に発生した冷戦構造は、今とはだいぶ違ったものになっていたであろう。歴史の裏で並外れた能力と精神力を持った女性が暗躍していたのである。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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