『母という呪縛 娘という牢獄』異常な母娘関係を描いた事件ノンフィクション

2023年1月21日 印刷向け表示
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作者: 齊藤 彩
出版社: 講談社
発売日: 2022/12/16
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殺人はけっして許されない。人を殺せば刑事罰に処される。それがこの社会の当たり前のルールである。だが時に、その「当たり前」が揺らぐことがある。殺すのも無理はない、やむを得なかったのだと加害者に同情してしまうことがある。本書が描くのはそんな事件だ。

2018年3月、滋賀県・野洲川の河川敷で、女性の切断された遺体が見つかった。警察は同年6月、女性の長女を死体遺棄、損壊容疑で逮捕、9月には殺人容疑で再逮捕した。逮捕されたのは、滋賀県守山市の高崎あかり(31歳)=仮名。あかりは被害者・高崎妙子(58歳)=仮名のひとり娘で、父親と20年ほど前に別居して以来、母と娘は二人暮らしをしていた。

その後の捜査や裁判を通じて、母と娘の異常な関係が明らかとなった。

あかりを医師にしたいと強く望んだ妙子は、娘を監視下に置き、長年にわたり常軌を逸した干渉を続けていた。母親の期待に応えようとあかりは必死で勉強し、医学部の受験を繰り返したが果たせず、2014年に医科大学の看護学科に進学した。この間、なんと9年間もの浪人生活を送った。逮捕された時、あかりは大学を卒業し看護師として働き始めたばかりだった。

一審であかりは殺害を否認した。だが裁判長は、あかりが妙子を殺したことに疑いを挟む余地はないとして、懲役15年を申し渡した。ところが二審では一転して、あかりは母親殺しを認めた。共同通信の記者だった著者が大阪拘置所にあかりを訪ねたのは、高裁での公判が継続中の時である。あかりが弁護士を通じて発表した文章の中にあった「母の呪縛から逃れたい」という一節に強く引き付けられたからだった。

面会に応じたあかりの所作や言葉遣いは、殺人を犯した人物とはとても思えなかった。この面会をきっかけに、著者とあかりとの間で交流が始まった。あかりのことを記事にすると読者から大きな反響があった。書籍化にあたっては、著者が送った質問に、あかりが答えるかたちで作業を進めたという。作中にはあかりの手記もおさめられている。本書は、獄中に囚われた者と取材者とが、いわば共同作業でつくった一冊である。

本書が描くのは、過保護や過干渉といったレベルをはるかに超えた、狂気を孕んだ母と娘の関係だ。小学校時代に成績優秀だったあかりを、なんとしても国公立大学の医学部に入学させたいと望んだ母親は、娘の生活を徹底的に監理した。いつも目の届くところで勉強させ、毎晩入浴まで共にした。だが何度、医学部受験に挑んでも、そのたびに高い壁に跳ね返された。

母娘の閉じた関係が壊れていくプロセスを、本書はつぶさに追う。息が詰まるような環境の中、互いが煮詰まっていく様子が、当時のLINEのやりとりや、あかりの証言などをもとに明らかにされていく。

ここでの引用は控えるが、母が娘に投げつける言葉は、もはやモラハラでくくれるようなレベルではない。相手を追い詰め、徹底的に傷つけ、奈落に突き落とし、服従させ、許しを乞うことを強いる言葉である。「詰問」「罵倒」「命令」「蒸し返し」「脅迫」。母の罵声にはいくつかのパータンがあった。刃のような言葉にメッタ刺しにされた娘は、母親の前で奴隷のようにひれ伏す。

言葉だけではない。包丁で切りつけられたり、熱湯を浴びせられたり、暴力を振るわれたこともあった。こんなことが何年も繰り返されていたのだ。あかりにとってそれは終わりのない地獄のような日々だっただろう。

2018年1月20日の深夜、あかりは母親を殺した。午前3時42分、ツイッターにこんな一言が投稿された。

「モンスターを倒した。これで一安心だ」

母親を殺さなければ、いつかはあかりが殺されていたかもしれない。母娘の関係はもう後戻りできないところまできてしまっていた。二審では殺害に至った事情も考慮され、あかりの刑は懲役10年に減刑された。検察も弁護側も上告せず、判決が確定した。

本書を読みながら、凶行に及ぶまでになぜあかりを救い出すことができなかったのだろうと考えた。あかりは高校時代、二度にわたって家出を試みている。それは牢獄で見つけた小さな脱出口のようなものだったかもしれない。だがあかりはそこから自力で外の世界に出ることはできなかった。

あかりを助けられたかもしれない身近な大人は、父親だろう。だが本を読んでも、この父親がうまく像を結ばない。存在感が希薄なのだ。別居していても娘との関係が切れていたわけではなかった。父親はふだん会社の寮で暮らし、給料日になると生活費をもらいにやってきた。通帳とカードを母が管理していたためだ。渡される生活費は3万円。残りを母と娘で遣っていた。ひと月3万円で暮らせと無茶を言われ、なぜ唯々諾々と従うのか理解できない。ところが逮捕後はこの父親があかりを支えているという。ますます父親のことがわからない。

もっとわからないのが、殺された母親・妙子である。彼女はこの本における最大の謎だ。本書では、あかりがどう追い詰められていったのかはよくわかるが、妙子がなぜここまで娘に辛く当たったのか、その理由は不明のままである。

あかりに対しサディストのように振る舞う一方、彼女は自殺未遂もしている。妙子も娘との関係に疲弊していたのかもしれない。辛く当たることでしか、コミュニケーションをとれない自分に苦しんでいたのかもしれない。だが、本人から話を聞くことはもう叶わない。せめて古くから妙子をよく知る人々の証言なども聞いてみたかった。

妙子は就寝前、あかりにマッサージされるのを好んだという。全身をマッサージされながら、気持ちよくなるとそのまま寝入ってしまうこともあった。娘に無防備に体を委ねていたという事実に、母の歪で不器用なコミュニケーションをみてとるのは見当違いだろうか。

就寝前に母親の体を揉みほぐす娘。そこだけを切り取れば、仲睦まじい親子のように見えたかもしれない。だが、あかりが母親の首を切りつけたのは、マッサージで気持ちよくなった母親がまどろんだ瞬間だった。

医学部をあきらめたあかりは、医科大学の看護学科に合格し、27歳で大学生になった。のちにわかったことだが、首席で合格していたという。

「君はよくやった。もう十分に頑張ったよ」

「君は自由だ。逃げてもいいんだよ」

そんな言葉をかけてあげる人が身近にいれば、あかりの未来は変わっていたかもしれない。

子どもは親の所有物ではない。親もまた子どもにすべてを与えられる存在ではない。だがそんな「当たり前」が、どうしてこんなにも難しいのだろう。本書を読み終えた後も、胸の奥に重りのような問いが沈んでいる。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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